津次郎

映画の感想+ブログ

漂う無理臭 ひそひそ星 (2015年製作の映画)

1.0
セピア調の昭和風屋内シーンから始まりますがパンすると宇宙船内です。
なぜか1Kアパート的な台所がありなぜか昭和風な女性がなぜか茶を飲んでいます。
宇宙船の操作パネルは手づくり感に溢れています。
レトロラジオのような箱の船内アナウンスが意味不明の航路を伝えてタイトルが出ます。
タイトルが出たあとの状況説明文は怪しいものでした。

『人類はあれから何度となく大きな災害と大きな失敗を繰り返した。その度に人は減っていった。宇宙は今、静かな平和に包まれている。機械が宇宙を支配し、人工知能を持ったロボットが全体の8割、人間は2割になっている。すでに宇宙全体で人間は、滅びていく絶滅種と認定されている。科学のほとんどは完結しているが、人間は昔と同様、百年生きるのがせいぜいだ。人間の人口は、宇宙の中でしだいに消え入るローソクの火のようだ。』(本編より)

国語力に乏しいのに加えて、率直に言って、とても馬鹿っぽいと思います。
機械が宇宙を支配、8割と2割、絶滅種と認定、科学のほとんどが完結、百年生きるのがせいぜい、消え入るローソクの火。
どうみても、他の言いようがあるんじゃなかろうか。

乗組員であるスズキヨウコは宇宙航行中の日記として音声を録音しています。
その録音として、現在の状況や立場などが説明されます。たとえばしつこいほど挿入される天井照明に囚われた蛾が、何とかいう惑星に着陸したとき入ってきてしまった虫だとか、例えば惑星間宅配サービスで十数年航行しているとか、などです。
それらが総てひそひそ声です。
やがてひとつの星に着き、とことこ荒野を歩いて廃墟のようなところに荷物を届けます。
普通のおじさんがそれを受け取ります。

そんな配達を何件かこなすのが映画の粗筋です。

予感していましたが、音声日記の録音によって、映画として訴えたいことも説明されます。例えば、テレポーテーションなら配達も瞬時だけど、「思い」を伝えるために、何年もかけて運ぶ、とかなんとか。

家での視聴だったゆえ、このへんで私は映画が何分経ったかを見ました。そしてあと何分あるかを見ました。映画が終わるまでにそれを4、5回やりました。

ここで、荷物をテレポーテーションによって一瞬で運ぶより、宇宙を旅して何年もかけて運ぶほうが「思い」が伝わる、という主張が出てきます。
おそらく機械的より人間的であれかし、というシンボルなのでしょう。ただし、それを呈示するには描写が足りません。説明として言ってしまうなら、映画である必要がないのです。スカーレットが、タラのテーマとともにいきなり出ててきて「明日には明日の風が吹くわ」と言えばいいのです。
あるいはテレポーテーションだって「思い」が伝わるかもしれません。なぜそうでないと言えるでしょう。いずれにせよ情緒がいきなり過ぎ、象徴へ導くには短絡過ぎ、なのです。
映画文法を無視というような問題ではなく、これが映画ではないということに、気付かされたわけです。

誰もいない浪江/南相馬でのロケ、またその住人たちの出演は免罪符になっています。素人感も意図的に隠していません。大震災を思い遣っている、彼らに寄り添っているという気配が、冷評を回避するのです。抜かりはありません。

これは、承認欲求で描かれたアートハウス風のプロモーションビデオです。プロモートするのは監督自身です。俺が描く俺の世界です。
言うなれば、桐島の前田涼也が、押しの強い先輩の隣で、先輩のつくった映画を観ている、ようなものです。
鑑賞中、先輩はずっと「どうだこのペーソスは!」とか「どうたこの映像美は!」とか「アルミ缶が靴に噛んだまま歩き回るのって楽しいだろ!」とか、絶対に、それを自負しているに違いないと思わせるねつこさにおいて、同意を強請してくるのです。
とりわけシルエットの回廊のあざとい愁嘆的雰囲気は凄まじいものがありました。
同意はしませんが、これが映画だとするなら、ありふれた体験ではないと思います。