津次郎

映画の感想+ブログ

一種のコメディ よこがお (2019年製作の映画)

3.9
筒井真理子も池松壮亮も吹越満も暗い。この布陣だけなら気が滅入っていた。が、市川実日子がパッと明るい。明るいキャラクターではないのに、垢抜けた顔と伸びすぎの佇まいに、どこか非現実を持っている。助けられた。

映画はサスペンスフルに展開する。面白い。もっとアート系な寓意を予想していた。不遜な言い草だが、だいぶうまくなった──と感じた。

何気ない日常会話を重ねていく。
是枝監督や河瀬監督に何気ない日常会話を見ることがある。
深田監督にもそれがある。
ただ、いつでも何かが起こりそうな不安を孕んでいる。
なにかの言葉によって、闇が掘り起こされ、日常がいっぺんに崩れ落ちる──ような気配が、常に漂っている。

時系列を錯綜させた編集も、それに拍車をかける。
そもそも、半尺過ぎてさえ、市子がいったい何を秘めていて、何をどうしたいのか、解らない。それでも、不安を感じないではいられない。
ほとりでも淵でも見えなかったが、この感じは確かに独自性があると思った。

ただしである。
いったん基子のテレビ発言が晒されると、様相が壊れる。
この発言が、内的葛藤を抱えていた基子の気まぐれにより、16円と言ったにもかかわらず、10億円と捉えられてしまった──みたいな、とんでもない針小棒大となり、元来、生まれるはずもなかった悲劇がはじまる。

わたしの勘違いでなければ、この映画は、事件と甥のズボンを下ろしたという日常会話を伏線させ、モラトリアムな基子に、甥のちんちんにいたずらをした──と報道されてしまった叔母さんが、それを期に社会から爪弾きにされる話である。
火の無い所に煙は立たぬ──とは言うが、悲劇がないところに力技で悲劇をつくり出している。

しかも息子じゃなくて、甥だよね?なんか勘違いしているのかな。甥のわいせつに、しかも未遂に、なぜ叔母が、芸能人の不倫かと思えるほど多勢の報道から追いかけ回されるのか──解らない。
筋だけならコメディといって差し支えない──と思った。

父の秘密(2012)や母という名の女(2017)のミシェルフランコ監督が、向こうのインタビューで深田監督との作風の類似性を指摘されている記事を読んだことがある。
確かに似ている。
何が似ているのかというと、元来、おこりようのなかった事故/事件/悲劇が、魔が差した人の行動/言動によって、おこり、そこへ主人公が呑まれてしまうドラマ展開が似ている。

事故によらなければ悲劇がおこらない、それが20世紀である──と言ったのは大岡昇平ではなかっただろうか。
この方法論は、うまく構築しなければ、まさに火のないところに煙を立てる作業である。

つまり市子が陥ってしまった悲劇に対して、あたかも打球が後ろへ飛んでいったバッターを揶揄するがごとく、むしろ、そっちへ打つほうが難しそうだわ──と言いたくなってしまう。なにを好き好んで、そんなところへ嵌まっているんですか?と尋ねたくなってしまう。
つまりコメディ。

だが閉じるまでのあいだに悲劇は中和される。押し入れでの情交を回収し、復讐は水泡に帰し、丘陵にテツandトモの片割れのようなジャージ姿の基子が仁王立ちしている幻影に過呼吸になったりもするが、しずかな湖畔で過去を洗い流す。時間はつらい思いを緩和させる。ふたたび安寧が戻ったかのように見えたとき、宿敵が轢いてくれと言わんばかりに道路にまろびでる。
一応、笑おうか迷った。

妙。じわりと変。どんより曇り空、絶対に晴天を撮らない。
因みにこれは上げの評価です。