津次郎

映画の感想+ブログ

定義フィルムノワールの中核 サムライ (1967年製作の映画)

5.0
冒頭に武士道の一節が出てくる。よく判らないが新渡戸稲造のだと思う。
外国人は、孤独と侍を結びつけて捉えている。日本での侍の位置付けとは少し異なっている──と思う。
日本で侍が描かれるとき、それは七人の侍のごとく多様だが、孤独のエレメントよりは、概して、秩序を重んじ義理がたく豪胆に描かれる。平生は穏健で、理想は久蔵の宮口精二の感じ。

日本人が侍のイメージを孤独とつなげないのは、おそらくメディアに孤独な男の話が少ないから──でもあるだろう。ふつう、しゃべらない男の映画なんて作ろうと思わない。
転じて、それをやっている映画には自負があるに違いない。フォレストウィテカーのゴーストドッグ、ジョージクルーニーのThe American、ライアンゴズリングのドライブ、フレッドジンネマンのジャッカルの日。孤独で寡黙な一匹狼──それらの基点となる映画がメルヴィルのサムライだと思う。

フィルムノワールという定義があり、それをよく判ってはいないが、個人的には、とても狭義な枠と捉えている。
私見としては、幸福、饒舌、陽気、人情、楽観などの属性を持った人間がひとりも出てこない映画で、何事にも動じない男が自律や掟に副って生きている。
かれは幸福にならないが、不幸にもならない。なぜなら悲劇臭を出さないのがフィルムノワールだからだ。死のうが生きようが、たんなるファクトとして置かれる。

哀感は多少あってもいいが、訴えるのはだめ。仲間や相棒はいいが、仲良しはだめ。女はいいが、情愛はだめ。ミッションを成し遂げるのはいいが、無償はだめ。生き残るのはいいが、ハッピーエンドはだめ。──それが私的認識のなかのフィルムノワールである。

すると誰もが聞いたことがあるこの定義が、ほとんど数作に絞られてしまう。本編はその筆頭だと思う。かえりみて、外国人の定義によって侍を教わったところは大きい。