津次郎

映画の感想+ブログ

巨大な田舎、東京 奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール (2017年製作の映画)

2.5
この監督の特徴で、業界の映画であり、都市の映画でもある。
モテキもバクマンもSCOOP!も業界で都市だった。

東日本では、東京でなければぜんぶ田舎といっても過言ではない。
畢竟、日本では、どんな分野であれ、多少なりとも野望があれば、高校を卒業する17歳辺りで、東京に出なければ、何もはじまらないことに気付く。

だから、みんな東京へ出て行って頑張った。必然的に都市生活者が優越を持つばあいがある。すると、なんとなく、そこはかとなく、「どや」が漂う。

コーロキが仕事と恋愛を通じて、ひとまわり成長するのが映画の骨子で、そこには普遍性がある。
が、その結論に至るのに、紆余曲折──というか阿鼻叫喚があり、ここまでスパルタンな経験をしなければ、業界では生き延びることができないんだよとばかりに、業界のキビしさと禍々しさが誇張される。

それがどやに見える。
分かり易く言うと、田舎者に対して「この緊迫感とスピード感が東京なんだぜ」と言っているような気配が、加えてその前に「田舎者のキミは知らないかもだけど」が付く感じが、──原作に依存するとはいえ、同監督の映画の特徴としてある。

これを俗にうがちすぎという。が、個人的にはモテキでもバクマンでもSCOOP!でも、この映画にもそれを感じた。

だがこの映画は、放恣な女性を、許容するかしないか、それが水原希子だったらどうか──に印象が集約している。

とくに魅力をおぼえないなら、業界をポップに活写した映画になる。エキセントリックだが過剰ではない。おしゃれだが庶民的ではない。都市だが、業界は不条理である。やはり強調されるのは一種の「どや」である。

ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」の、原題The Moon Is a Harsh Mistressには、夜も、女王も出てこない。結局Mistressが翻訳できないからこうなっている。かつて女教師と訳されていたこともある。

夜の女王と訳したのは苦肉の策であろう。英語の起源は知らないが、ボンデージドレスを着て鞭を持った女性を指す。すなわちSMファッションの女性である。

月世界の革命闘争を描くSFだが、タイトルを意訳すると「結果的に、月はわたしを徹底的に鍛えてくれた、きびしい教官だった」という意味だ。
月を擬人化し、闘争を教練としてとらえている。

世のなかの事態は、構造的に、敵や大きな厄介が、結果的に自分を鍛えてくれるばあいがある。コーロキにとってあかりは教官だったといえる。狂わせるガールがHarsh Mistressだったわけである。

一応、この映画もその構造を持っているが、素直には落とさない。木下編集長がコーロキとの会話で、好きな女に去られ、見返してやろうとの奮起が、こんにちの自分をつくったんだと吐露していたので、恋愛→失恋→成長の曲線を予期すると、狂わせるガールが、それを粉砕する。

あかりが江藤社長の「ゲロうま」をジェームスブラウンの「ゲロッパ」に変換して口まねするのだが、人を酒席で笑いものにする、あかりの卑しさを寸描したこのシーンは冷静だったが、因果応報とはならない。
だからもし水原希子が、それほどでもないなら、大きな不満足を覚える──かもしれない。放恣な女性を、許容するかしないか、それが水原希子だったらどうか──に印象が集約している映画、とはそういう意味である。

業界の不合理から、谷村美月がADとなって魑魅魍魎たるテレビ業界人のなかで生き延びる映画「明日やること ゴミ出し 愛想笑い 恋愛。」(2010)を思い出した。ラスト数分で逆転する荒唐無稽なコメディだった。この映画で溜まったもやもやを、すっきりさせるのにうってつけと思う。