津次郎

映画の感想+ブログ

熱い物語性 祭りの準備 (1975年製作の映画)

5.0
MeTooは世の潮流だが、若い対等な男女間には、セクハラが成立しない。
発端となったワインスタインしかり。
いま(2020)フランスで拡がるポランスキーの件もそうだ。
その行為を首謀するのは権勢や年長である。

監督と女優。上司と部下、首長と市民、警察官と被害者、教師と生徒、コーチと選手。親と子。主従の立場を利用し、女性を貶めるパターンがほとんどだ。

ところで、2065年の日本では、約2.6人に1人が65歳以上、約4人に1人が75歳以上となるらしい。
すでに経験したことのない少子高齢化社会だが、それは今後も加速していくようだ。

私の子供の頃は、たとえばバスや列車内で騒ぐ子供や若者を本気で叱る老人がいた。その怒りは、なんて言うか大正教養主義的であって、核心を突いていて、理不尽がなかった。

たしかに昔、老人は老師だった。人生の先輩だった。
そんな老人が、この世からことごとく消えた。

セクハラ報道に、なんとなく「祭りの準備」のおじいを、思い浮かべる。
脚本家中島丈博の半自伝映画だが、熱い物語性があった。わたしが嫌う「日本映画」も、叙情に流れてしまわなければ、これほど魅力的なのである。
(以下部分的ネタバレあり)

海辺の小さな村、主人公タテオは信用金庫に勤めながら、シナリオ作家を夢見ている。母と祖父(おじい)の三人暮らし。父親はよそに女をつくっている。村の同輩らは、猥雑で自堕落に生きている。タテオは家族や村人と葛藤し、性に悶々としながらも、直向きに生きている。

都会へ出てキャバレーで働いていたタマミが、ヒロポン中毒になって村へ帰ってくる。恍惚としていて、誰にでもヤらせる。我もと、タテオもいどむが、横合いからおじいに寝取られ、あきらめる。

タマミはおじいの子を宿し、二人で仲むつまじく暮らし始めるのだが、出産すると、どうした塩梅か、正気を取り戻してしまう。正気に戻ったタマミには、おじいが誰か解らない。誰とも解らない老人は嫌悪の対象でしかない。悲嘆に暮れたおじいは首を吊って死ぬ。

映画の本筋はそこではないが「祭りの準備」が忘れられないのはその件である。
年齢とともに減退すると見なされている欲求が、じつはそうではない。
街や商業施設や公共交通機関で、騒ぎに何ごとかと見れば、渦中にいるのはたいてい年配者である。
とうぜん欲求には性欲も含まれる。

「祭りの準備」のこの件が、哀しいのは、まともに見える老いた男でさえ、じつは若い女と愛し合って暮らしたいと願望している──という、おそろしくプリミティブな核心をついてしまっているからだ。

MeTooの初期の頃、カトリーヌドヌーヴが反迎合する発言をした。
「男が言い寄るのは性犯罪ではない。膝を触ったり、軽くキスしようとしたりしただけで男性は制裁され、失職を迫られている」と嘆き、セクハラ告発の行き過ぎは「女性を保護が必要な子供におとしめる」と警告した。
この発言は、軽くとらえすぎとして、すぐに追いやられた。
わが国では「言い寄る」男の三人に一人が65歳以上である。