津次郎

映画の感想+ブログ

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)

5.0
洋楽一辺倒だったが、個人的嗜好からして、縁遠いバンドだった。天才をわかっていなかった。そもそもFreddie Mercuryが出っ歯だったなんて知らなかった。
おなじLucy BoyntonならばSing Street(2016)のほうが身近な洋楽だった。

スタジアムを埋め尽くした何万人もの観衆に、自分のつくった歌を歌わせることのできる男が、サイドランプを窓越しに点滅させて、愛を語る──その、相反する孤独が、この映画には描かれている。

男色にしたって、グルーピーたちと壊乱した性生活をおくった──ように思っていた。スターなんだから、乱痴気騒ぎのように、なしくずしに傾向したのだろうと思っていた。

そうじゃない。

自分がゲイ文化を先導しつつ、信頼する異性がいるゆえに、性指向に禁忌をかんじている男の孤独。
華やかなFreddie Mercuryが、そんな純情な男だったことを、映画ではじめて知ることができた。

いったんゲイを認めると、そこからはまるでケンラッセルのValentino(1977)のように人気と反して零落する展開が哀しい。
持ち上げまくって、偶像を殺したのは、周囲のシステムだという位相で映画が進んでいくのが、とても辛い。

ふつうの人間より、ずっと愛を希求している男が、大勢の人々に愛されながら、愛を見いだすことができずに、衰弱してゆく姿がかわいそうだった。

その時代とかれの立場をかんがえるとき、われわれが講じるLGBTなんて、なんと他愛ない話であることだろう。

Freddie MercuryをRami Malekが演じると知ったときの、違和感は、すなわちわたしたちが、QueenもFreddie Mercuryも、わかっていなかったことに所以するものではなかろうか──と思った。

そもそも、ゲイ文化を知らないわたしが、Freddie Mercuryの外面に感じていたのは、たくましさや力強さである。その文化圏にいる人間からは、所謂タチにしか見えない、のだろうが、おぼこな一般人からは、ひとめでわかる特異性と意匠をもった短髪のロックスターがFreddie Mercuryだった。

かれが、かかえていた脆弱を知らなかったゆえに、いっけんひ弱に見えるRami Malekの配役に違和をおぼえたのである。ただし、Rami Malekはメイもテイラーもディーコンもみとめた、Freddie Mercuryの分身だった。それは映画ではっきりと理解できる。

みんなわかっていなかった──がもっとも痛烈だったのはBohemian Rhapsodyにたいする同時代評だった。と思う。
Bohemian Rhapsodyがキャピタルで初オンエアされたときの、メロディメイカーの、ローリングストーンの、タイムマガジンの評をご覧になっただろうか。
contrived、not the stuff of sonnets、a brazen hotgepotge・・・不自然、詩的じゃない、ごたまぜ・・・。
だれひとりとしてこの神曲をわかってなかった。天才はいつでも早すぎる。

映画は、緻密に監修されたqueenの歴史であると同時に、愛を求め、孤独とたたかいながら、太く短く生き抜いた男プラス、queenという家族プラス、ほんとのかれの家族──善い行いをせよと口癖にように諭していた父親のことばを果たすライブエイドのステージにすべてが集約されていた。

あの当時わたしたちがWe Are The Worldを二番煎じ物としか感じなかったBand Aidの興奮。
クイーンも洋楽も知らなくていい、だけどクライマックスのWe Are The Championsの叫びに涙しなかったら人間じゃない。と思える映画になっていた。