津次郎

映画の感想+ブログ

もう終わりにしよう。(2020年製作の映画)

もう終わりにしよう。

4.0
Charlie Kaufmanはひとりでジャンルだと思う。脚本のエターナルサンシャインやアダプテーション、監督の脳内ニューヨークやアノマリサが、なんであるのか、わからない。

ファミリー/ドラマ/スリラー/サスペンス/ホラー/コメディ/ファンタジー・・・のどこに入れるのかが、わからない。

原作はカウフマンではないけれど、カウフマン好みの混乱がある。
けっきょく、どこへ入れたらいいのかわからない。

わたしのNetFlixの設定がいけないのかもしれないがCharlie Kaufmanの新作映画が、事触れもなしに、ほかの作品のような大仰な告知もなしに、ひっそりと、あった。
検索しなければ見つけ出せないような、奥にしまい込まれていた。
たぶんNetFlixはこれで稼げるとは思っていない。

物語はよくわからない。
が、はなしそのものはたんじゅん。
雪の中ドライブして彼氏の家族と食事する、だけである。
どこがおもしろいのかわからないのにおもしろい。

冒頭から散文的で、映画的体裁がない。
そこからずっと低回する。
『低回:思案にふけりながら、頭を垂れてゆっくりと行きつもどりつすること。転じていろいろと考えめぐらすこと。』

『すべては死ぬ。それは確かだ。でも人は生きようと希望を持つ。物事が好転するだなんて人間の幻想なのに。ほんとは好転しないと知っているから、だろう。すべては不確か。でも人間だけが、死が不可避なことを知っている。ほかの動物は、ただ生きる。人間には無理だから「希望」を発明した。』(本作の台詞より)

基本的にそんな諦観が支配している。
が、詳しくはわからないが、じぶんの属性にたいする嫌悪が主題──だと思う。
それは故郷であり、肉親であり、自己嫌悪そのもの、でもある。

故郷はいやな場所だ。
肉親にはなぜか忌避したい気分がある。
それらを背負っているじぶんがきらいだ。
・・・というようなこと──観念的な粗描で、人生にたいするやるせなさを描いている話。だと思う。個人的には共感できた。

が、人生にたいするやるせなさ、と言ってしまうと、たんじゅん過ぎる。もっと、まがまがしく、いやらしく、べたべたしてくる、世界と自分にたいする嫌悪感があった。

吹雪の夜中にオレオクラッシュのとんでもないデカさのカップアイスを買ったはいいが、甘すぎてほとんど食えず、あふれそうに残ったままカップホルダーにある。それは溶けるし、べたついて、やがてそこらじゅう惨事になる──気がする。
拡がり続けるエントロピーのような嫌悪。暗い。

『母が懐かしくないわけではない。ただ私は肉親の露骨な愛情の発露に当面するのがいやで、そのいやさにさまざまな理由づけを試みていたに過ぎぬのかもしれない。これが私のわるい性格だ。一つの正直な感情を、いろんな理由づけで正当化しているうちはいいが、時には、自分の頭脳の編み出した無数の理由が、自分でも思いがけない感情を私に強いるようになる。その感情は本来私のものではないのである。
 しかし私の嫌悪にだけは何か正確なものがある。私自身が、嫌悪すべき者だからである。』
三島由紀夫作「金閣寺」より)

どこにいてもハッとするバイプレーヤーJesse Plemonsが出色だった。Jessie Buckleyはブリーラーソンが降板したことにより登板したとwikiに書いてあった。が、父母はToni ColletteとDavid Thewlisであることからも、かんぜんに意識して演技派を集めたことは、しろうとの私にもよくわかった。

難解とはおもわないが、群をあつかうNetFlixのようなコンテンツビジネスと日本人の嗜好をかんがみるなら、これをNetFlixの消極的な押しのなかから、偶然のように見つけた、ことの非通俗性はいたいほどわかる。

オンデマンドをつかさどるコンテンツビジネスでは、それが「なん」であるのか、呼称しなければならない。そこで流用されることになってしまった言葉が鬼だ。未成熟だったり、無能力であることを婉曲して「鬼才」と暫定仮称するようになった。──わけである。
そこでほんものの鬼に鬼才が使えなくなった。