津次郎

映画の感想+ブログ

弥生、三月-君を愛した30年-(2020年製作の映画)

3.0
恋愛ドラマには中高生くらいの思いが、大人まで引きずって描かれるものが多くある、と思う。とりわけ日本にはその展開をもっている話が多い。

なぜ、そうなんだろう。

個人的な見解だが、ノスタルジーが所以しているのではないか、と思う。

わたしたちは、学校を出ると、かつては持っていた、純心(のようなもの)を、捨てなければならない現実に直面する。

しごとでは、日々上司から追い捲られていたり、あるいは、がんらいの優しさを隠して、部下を叱責しなければならない──というような場面だらけであって、隙や甘さを見せると、足下をすくわれる。

すなわち、そのような殺伐とした現実を生きるおとなになってしまうと、中高生くらいの、友人や友情や恋心が、たとえようもなく甘美なものに見えてくる、のである。

そのノスタルジーが、幼少時や若い頃の恋愛が、人生を貫通する──という展開を持っているドラマを氾濫させているのではないだろうか。

加えて、こんにちの社会で、男と女が出会って結ばれることの希少性もこの手のドラマの流行に加担しているはず、である。

世のなかには何億人もの男がいて、何億人もの女がいるはず、なのだが、両者の間には、網の目のように入り組んだ社会規範が待ち構えている。やがて、その難易度に面倒になってしまうのは、男も女も、あなたもわたしも、よくご存じのとおりである。

こんな荒涼とした現実にさらされているからこそ、初恋に無上の価値を見出してしまうのであり、成就するにせよ、思い出になるにせよ、ドラマタイズされることが多いのは、そんな理由があるのではないか──と思ったのである。

したがって、このような話のターゲットとなるのは、むしろ壮年のような気がする。
もしそのドラマが秒速5センチのように巧いなら、おじさんでもおばさんでも無条件に心奪われるからだ。

現実には、幼少時や若い頃の恋愛が人生を貫通することはない。
あるとしても、そうとう稀なことだろう。
わたしたちができるのは、たとえば同窓会の酔った勢いで、一夜の情事になるか、みっともない玉砕をするか、どっちにせよ無傷だったノスタルジーを傷物にしてしまう──くらいがせいぜいではなかろうか。

これは一種のファンタジーである。

日本のイケメン俳優は好きではない人のほうが多い。が、本郷奏多と、成田凌はいい。
成田凌のばあい、飄々(ひょうひょう)がある。ざっくり見渡すと、これが珍しい属性だということは、お認めになる方も多いだろう──と思う。

携帯を見ることとサクラの墓参り──が時の移り変わりを示す通過点描写になっている。
携帯の進歩を見せることによって、時系列がわかりやすい。
近年、この手のドラマは「現在へ戻る」と「過去を回想する」を、さかんに入り乱れて編集することが多いので、好感だった。

が、映画は非現実的なところが多い。ファンタジーだと言ったそばから、非現実的がいけない──というのも矛盾だが、借金のために政略結婚とか、ウェディングドレスのまま式場から抜け出すとか、突飛すぎる展開には辟易した。
リアリティに寄せるドラマでなくても、あるていどの真実味はひつようだと思う。

また、震災を利用している。
震災後につくられた多くのドラマが、震災によって、なんらかの動きを生ずる展開をもっているが、個人的には、ごく個人的には、それが焦点でなければ、震災が介入することに疑念がある。ドラマの哀感のために利用していいことじゃない──と思う。

映画は、ご都合主義的で、偶然によって救われ過ぎるし、ドラマチック度と無理感が高すぎる。──「ありえねえ」のつっこみをつぶやく回数が多すぎた。
また若年からの老成を、メイクのみで見せており、ある程度妥当ではあるものの、波瑠のほうれい線には、違和があった。

──が、しかし。
映画はわるくない。この監督には「日本映画」の鬼才感がまったくない。微妙なニュアンスのように聞こえるかもしれないが、「鬼才感」の有る無しは、画に明解にあらわれる──ものだ。
個人的に恋妻家宮本は傑作であって、その職人系な演出力は、このクサすぎるドラマにもしっかりあらわれていた、と思う。