津次郎

映画の感想+ブログ

竹内結子の最高傑作 サイドカーに犬 (2007年製作の映画)

サイドカーに犬

3.5
根岸吉太郎には、滝田洋二郎とおなじで、ポルノ出身者で、まっとうな映画をつくった監督──という認識がある。日本映画風のギラつきがなく、さわやかだった。

ヨーコの来歴には男女間の混濁がある。もしそれを描写してしまうなら、たんなる「日本映画」だった。
がんらい彼女では配役が若すぎるし、きれいすぎる。母が出ていった家庭に入りこんだ間女なのであれば、もっとスレた風情があっていい。
が、ヨーコに世俗やつれの気配がないのは、また男女間の混濁が描写されないのは、子供視点だから、だった。──それが清涼感へつながっていた。

子供の頃、出会った、かっこいい女性。
ヨーコはおそらく、薫にだけは、いい記憶のままのじぶんでいようとしていた。──のだと思う。
ほんとはサバサバなんてしていない──のかもしれない。

大人にはそういうところがある。
昔、出会ったひとに、もう会いたくない、ことがある。
それは会いたくない──わけではなく、費えたじぶんを見せたくないからだ。きれいな記憶のままにしておきたいから、だったりする。

物語は、薫の目線であり、ヨーコの気持ちは描かれていない。だけどそんなヨーコを深読みできる余白を映画は持っていた。

だれにでも子供のときだけ交流があったひとがいる。
大人になって、振り返ってみたとき──ふしぎなひとだったな、あのひと。でも、いろいろ隠していたんだろうなきっと。しみじみ、そんなことを思う──ものだ。

それがこの映画の普遍性だった。
けっこう淡泊な話だったが、ドロップハンドルとソバージュと竹内結子を、わりとあざやかに思い出せる。

ドラマや映画で彼女を見るたび、思っていたことだが、なんとなく、そこはかとなく「無理している」感じのある女優だった。

どこが、そうなのか──具体的に指定できるわけではないが、なんか常に「すごく頑張ってしまっている」印象のあるひとだった。

そして、その印象は、なんとなく、可哀想なのである。
その可哀想は、同情ではなくて「もっと気楽にやればいいのに」と言いたくなる可哀想──なのだった。

山田洋次の遙かなる山の呼び声(1980)で、北海道で女手ひとつで酪農をやっている未亡人、倍賞千恵子を、従弟夫婦がたずねる。
夫婦は武田鉄矢と木ノ葉のこ。博多から、新婚旅行でドライブしてきたのだった。

帰りの車で武田鉄矢が、涙をこぼしながら、ぽつりと言う。
「なんか、可哀想なんだよな、あの姉さん」
あの感じと似ている。

木村拓哉と共演した医療ドラマがあった。キムタクのドラマのなかでも一二を争える低迷を喫したドラマだった。
放映前、いくつかのドラマ出演者が、番宣を兼ねて、対抗競技する──というバラエティ番組があり、たまたま見ていた。

バラエティのノリに不慣れな感じだった。他愛ない競技に、すごく頑張っている印象があった。木村拓哉に気をつかっていたし、じぶんのミスで敗退することを畏れている感じもあった。

生真面目ゆえに、なんとなく、そこはかとなく、損しているのに、それを明るい笑顔や、高めのテンションで隠している気配──をつねに感じる女性だった。

どんなに近しいひとのまえであろうと、家族であろうと、なんらかの品(しな)をつくる、ひとがいる。どこかにいる借り物のパーソナリティであろうとする。人前ではぜったいに「素」ができないひとは、けっこう、いる。と思う。

これらは、むろん、なにも知らない人間の勝手な印象に過ぎないが。
ご冥福をお祈り申し上げます。