津次郎

映画の感想+ブログ

人種問題をカリカチュア ゲット・アウト (2017年製作の映画)

ゲット・アウト(字幕版)

5.0
ブラックスプロイテーションではなくても黒人ばかりが出てくる映画がある。

たぶん、おおくの人が、白人しか出てこない映画を見ていて「この映画には白人しか出てこないなあ」とは、感じないだろう──と思う。

だが、ゲットアウトやアスを見ていて、──黒人しか出てこない、わけではないけれど、黒人が主の映画だな、とは感じる。──のではないだろうか。

この感覚は、はたして差別なんだろうか。

筒井康隆の短編に色眼鏡の狂詩曲 (ラプソディ)というのがある。
1972年刊の文庫で読んだ。作はもっと前であろうと思う。

うろおぼえだが、日本にはサムライとゲイシャと相撲レスラーと全学連、しかいない。
かれらが毎日なにをしているのかというと、ハラキリをしたり、芸者遊びをしたり、相撲を取ったり、ゲバ棒をもって襲撃したり──している、わけである。なにしろサムライとゲイシャと相撲レスラーと全学連しかいないんだから、そうなるわけである。

先般、nhkが放映したblack lives matterを解説するアニメーションが炎上した。
わたしはnhkを好きでも嫌いでもない。
nhkが好きか嫌いか、考えたこともない。

ただし、このアニメーションは、社会情勢にうといわたしが、しろうと目に見ても、ふつうに古かった。
2020年に、1972年のアニメーションを見た、と言って過言ではない。
ちびくろサンボや、ダッコちゃん、の時代の代物と言っていい。

日本人が黒人を差別しているか、いないか、知らない。

この炎上にたいするニュースは、日本人の黒人にたいする差別感情が発覚した。──と、紛糾しているが、そうじゃない。

芸人が顔を黒塗りにして、笑いを誘おうとしたとしても、日本人が日本でやるなら「差別」なんか、関係ない。

日本人は黒人のことを、なんにも知らない。

日本人が黒人のことを語るのは、バスクやアーミッシュやマオリやイヌイットのことを語るようなものだ。

日本人の黒人にたいする差別感情が発覚した。とは、キリンのゾウにたいする差別感情が発覚した。と言っているようなものだ。急所を千マイルも外している。

アニメーションが伝えたのは、黒人にたいする差別感情ではなく、日本人の、外国人と世界情勢にたいする無知──だった。

アニメーションの作者は、nhkの注文に添ったのだろう──とは思うが、ほとんどblack lives matterについて知らない──はずである。
black lives matterを身近な問題としている人が描いたなら、こんな「色眼鏡の狂詩曲」にはならないからだ。

が、問題なのは国営的放送局が、無知にたいする監修が機能しないまま、そのアニメーションを放映してしまったことだ。無知に自覚がない──のを露呈してしまったことだ。

むかし、外国人の日本人観といえば、首からカメラをさげ、丸めがねをして、出っ歯で、意味不明に笑っていて、集団で行動する──というものだった。

それが、いつしかなくなった。
抗日や、日本人に対する嘲弄を意図している──のでなければ、もうそんな日本人観は、外国映画に出てこない。

でも日本人がつくった創作のなかには、black lives matterのアニメーションみたいな黒人観が出てきてしまうことがある。──と、このnhkのアニメーションは言っている。氷山の一角なのである。

筒井康隆が色眼鏡の狂詩曲を書いたのは、日本人が海外でかならずステレオタイプで描かれてしまうことにたいする恨みからである。そのカリカチュアだった。

むかしの筒井康隆の作風は、私怨を原動力としていた。いまでこそ大家だが、かつてSF作家は、文壇から疎外されていた。そういうあたまの硬い連中にたいする怨念が、筒井康隆の初期作品やエッセイの端々にあらわれる。

しかし筒井康隆が大家になったように、あたまの硬い世の中といえども、経年で均されてくるのが順当な、時の流れ──である。
SFがていどの低い読み物だと、本気で思われていた時代があった。が、きょうび小松左京や星新一や筒井康隆を、ばかにする愚か者はひとりもいない。

人々はSFを知り、SFの地位は向上した。固定概念が打破されたのだ。
そのプロセスと同様、せかいにおける日本人観も、日本/日本人が知られたことにより向上した。
わたしたちの外国人観は、どうだろうか。

アニメーションではタンクトップを着たマッチョ──粗暴にしか見えない黒人男性が怒声をあげている。その周囲に描かれた人々も、色眼鏡の狂詩曲のイラスト──と紹介されていたら信じるだろう。

つまり、首からカメラをさげ、丸めがねをして、出っ歯で、意味不明に笑っていて、集団で行動する──という画一で描かれてしまった日本人と、変わりはない。
しろうと目に見ても、おどろきの時代錯誤があった。

だが、社会派ではないので説教がましいことには興味がない──ゆえ、個人的に言いたいのは、黒人を差別してはいけない──ではなく、無知を露呈してはいけない──でもない。

もちろん黒人を差別してはいけないし、無知を露呈するのは恥ずかしいことだ。が、私的には、痛くないなら、痛がるなと、言いたい。
キリンがゾウを差別している──として、その真実に、心から向き合えるだろうか。
それについて心から怒りがこみ上げてきますか?

周囲に白人または黒人の友人も知人も、いない。
しごとでも日常でも、black lives matterとは無縁である。
それどころか、生まれてこのかた、自分の半径三メートル内に、黒人がいたことは、海外旅行時でもなければ、コンビニのレジで外国人のアルバイトと対峙したとき──ぐらいである。
それが、ほとんどの日本人である、はずだ。

織田信長だったろうか。忘れてしまったが、むかし漂着した船員に、黒人がいた。殿様は、驚いて、家来に洗えと命じた。ごしごしこすったが、はたして黒いままである。家来は「殿、汚れが落ちません」と報告した──にちがいない。
黒いひとを初めて見て、汚れだと思ったから、洗った──これは差別だろうか?

身近に黒人が存在していないならば、日本人の黒人観は、その時代や殿様たちと、たいして変わってはいない。それはnhkのblack lives matterのアニメーションが証左している。

にもかかわらず、日本人が黒人を差別しているか、いないかなんて──。
たわごともやすみやすみ言うべきだ。
いったいどんなポジションにおいて、黒人にたいする差別について、語ることができる──と言うのだろうか。

いみじくもバイエマクニール氏の発言にはこうある。

『「首を押さえつけられ、死に至った黒人男性を、自分の息子、父親、もしくは兄弟と重ねて見ることができないのであれば、Black Lives Matterについて説明する動画は作るべきではありません。関わるべきではないのです。それは、黒人の命をその他の人間の命とは別だと考え、『黒人の命も同等に大切である』ということを軽視することになるからです」』

black lives matterを知り、理解することは必要で重要なことだと思う。
ただし、痛くも痒くもないことに、追従しているフリをつくるのは、芸能人の意識高いアピールみたいなものだ。
マクニール氏も、言いたいことの焦点は、黒人を差別しないで下さい──ではなく「わかってないなら、だまってろよ」なのである。

ましてや、そのアニメーションが使われた番組名が「これでわかった!世界のいま」なのであれば、炎上は合理としか言いようがない。

日本人がアメリカの潮流を模倣するときポーズが介入する。──と個人的には思っている。

かなまら祭で、ピンク色の男根を御神体とあがめ、町を練り歩くひとたちが、LGBTにたいする差別反対!と絶叫していたら、われわれはそれに、どう反応すればいいのだろう。

black lives matterの日本国内のデモ行進で、白人や黒人に交じって叫ぶ日本人女性が、山田詠美のソウルミュージックラバーズオンリーやベッドタイムアイズの愛読者で、外国人のちんこはデカいから気持ちがいい──と考えていたとしたら、どんなもんだろうか。

じゅうぶんに有り得る。
海外のムーヴメントを日本人が日本でやるなら自己アピールかファッションにしか見えない。たとえ、そうでなくても、端からは、仮装の行列か、12月24日のKFC行列にしか見えない──のである。

──冒頭に戻るが、ハリウッド/白人の映画を見ているとき、われわれ日本人は、たいてい白人側のスタンスで、それを見ている。
間違いだ──とは思わないが、迂闊だとは思う。

そのむかし、わたしたちが白人の島に漂着したばあい、殿様は驚いて、家来に洗えと命じる──だろう。ごしごしこすったが、はたして黄色いままである。家来は「殿、こやつの黄色は落ちません」と報告した──にちがいない。

ブラックスプロイテーションもスパイクリーもジョーダンピールも、博愛や融和を説いているわけじゃない。そんなことはぜんぜん言っちゃいない。

Do the Right Thing(1989)をご覧になっただろうか。あまりにも峻烈だから主人公をイタリア系に置き換えている──に過ぎない。
徹頭徹尾、人種間の諸問題は、相容れない人/事として、扱っている。かれらが発しているのは、一種の諦観である。白人にたいする尽きない敵愾心である。

ただしジョーダンピールはその怒りを隠して、スパイクリー以上にスパイクリー的なことを洗練した手口でかたる手腕がある。いわば、客観性がある。
まるでかれは黒人でも白人でもなく「白人と黒人のあいだにはいざこざがあるそうですが、それをカリカチュアしたらこんな感じになるんじゃないですか」と言っているか──のようだ。
その超越的な第三者のような見ばえがゲットアウトの凄みだった。