津次郎

映画の感想+ブログ

変化する思い出 スタンド・バイ・ミー (1986年製作の映画)

スタンド・バイ・ミー (字幕版)   

5.0
なんびゃくも映画レビューを書いていると、たとえば昔かいたやつを読み返したときに、こんなこと書いたっけとか、ぜんぜん映画読み違えているぞとか、いまはそんな風に感じないなあとか、いいかげんなことかいてやがるなあとか──をかんじることがある。

人さまのことは知らないが、わたしのばあい、水も漏らさぬ一貫性において映画レビューをやってる──わけじゃない。

感想は、時間とともに変化したり、気分によって変化したり、好悪によって変化する。

気分屋じゃない──としても、幼少期や若い頃に見た映画を、何十年も経ってから再度見たとき、まったくおなじ感想ってことは、ふつうはないもんだ。

それを書いているときは、正直で誠実で本意だが、コンピュータじゃないから、全体を俯瞰してみたら、なんらかの齟齬はあるだろう。

まったくのところ、にんげんというやつは、基本的にじぶんのことがだいすきである。
それはティーンであろうと、おじさんおばさんだろうと、あなた/わたしも、やっぱ、じぶんのことがだいすきであろうかと思う。

じぶんだいすきなやつが、じぶんの主観において、ひとさまがつくった映画を、ああでもないとか、こうでもないとか、あれがいかん、これがいかんとか、言ってるわけである。

わたしがよく取りざたする映画のだいきらいな要素に承認欲求ってやつがあるんだが、とはいえ、だいたいにおいて映画レビューなんか書いたりするやつってのは、承認欲求のかたまり──とみていい。

まったくのところ、映画レビューサイトなんてものは、大ブーメラン大会会場と言っていいんじゃなかろうか。

それはともかく。

スタンドバイミーは若いころと、大人になってからと、年をくってから、それぞれ、印象がことなる映画だと思う。

若いころ──クリスやゴーディとそんなに大差ない年齢で見たときはソフトな印象しか残らなかった。

あるていど大人になってしまうと、この映画のさいだいの命題はリバーフェニックスのセリフ「I just wish I could go to some place where nobody knows me. 」になる。

クリスはとても大人なキャラクターで、すでに社会と家柄と自分との関係性に、すさまじい疲弊を感じていた。

わたしは若いころも、大人になってからも、年をくってからも「わたしのことを誰も知らない土地へ行きたい」と思い、ときどきはじっさいにそうした。

だが、そうしても、しがらみから解き放たれて、いさぎよく生きられるわけじゃない。なんかがわたしを追いかけてくる。その追憶が貯まれば貯まるほど、この映画は泣けてくる。