津次郎

映画の感想+ブログ

インプリント ぼっけえ、きょうてえ(2005年製作の映画)

1.0
スピークアウトというアメリカのパーティゲームがあるんだが、それにはマウスピースがついてくる。歯科的に言うと、口腔内頬骨リトラクターというものだそうだが、強制開口し、歯を丸見えにするどうぐである。

ゲーム内容はよく知らないが、口を閉じることなく喋ることができるかどうか、やってみれば分かると思うが、その状態を利用するゲーム──と思われる。

このゲームをアメリカ人以外がやるわけがない。

アメリカの子どもたちは、かならず歯に矯正金具を付けている。
なぜそうするのか──といえば習俗になっているからだが、元はと言えば、敵意がないことを示すために笑顔をつくる必要があるからだ。

ながくホテルに勤めていたが、かれらは、ウェイターかポーターに過ぎないわたしにもかならずニコっとわらう。(全員がそうだとは言わないが白人のビジネスマンは総じてエッセンシャルワーカーに対して当たりが柔らかい。)
アジア人は、そんなこと(下っ端のスタッフに微笑むようなこと)はしない。
そこがアメリカなら、その根本的な意味は「殺し合いは避けましょうね」とか「気分よくすごしましょうね」とか──いうことだろう。
笑えば歯が見えるし、それをきれいに見せたほうが感じがいいだろう──ならば、歯並びを矯正して、白く磨こう、ということになる。

リステリンなど口臭予防商品というものはたいていアメリカの受け売りであり、幼少からメンテナンスが奨励される。
Man on Fire(2004)で、まだ子役だったダコタファニングのセリフに「ストロベリー味のフロスを買ってきて」というのがあった──のを覚えている。

海外在住者や帰国子女のばあい、この展開から、日本人は口腔への意識が低すぎるとか言って、じぶんのグローバル感覚をひけらかすわけだが、あいにくわたしは日本のお百姓なので、無意味な比較はしない。(映画については無意味な比較をやるが)

人前で、口腔内頬骨リトラクターを装着するってことは、歯のきれいさに自信があるということだ。
アメリカのトークショーで、セレブが、なんのためらいもなく、これをやる。こっけいな顔になるし、よだれもでる。
しかし絵として一定のかわいげがある。

もし、矯正も美白もメンテナンスもしていないひとが口腔内頬骨リトラクターをやったら、これは絵にならない、というより、閲覧注意の見ばえになる。
それは、テロであって、とうていゲームなんぞ興じちゃいられない。

歯の見た目をよくするのが、あっちでは社会通念や常識に属する──わけである。
われらが聡太くんも、海外ニュースになってしまえば、将棋の天才というよりも先に乱杭歯(らんぐいば)がかれらの注意をひいてしまう──のかもしれない。

西洋社会の通俗が、絶対的な正しさを持っていると考えている──ひとのなかでは、黄色いの歯の日本人は、未開人ということになってしまうが、がんらい日本にはお歯黒というものがあった。(いまさっきwikiを見て調べた知識に過ぎないが)

もとは貴族や武家の子女の習慣だったが、江戸時代は、成人女性及び既婚者がお歯黒をしていた、とある。明治末期まで続いたそうだ。
なぜ、そうしたのかと言えば、見た目をよくするため──だった。そうだ。

審美観や美意識がかわった現在では、時代劇でしか見なくなったが、事実上それは化粧であった。

さらに、お歯黒は引眉というものとセットでおこなわれた──とある。
引眉は眉を抜いてしまう習慣である。とうぜんそれも、見た目をうつくしくするため──であった。

すでにお分かりのとおり、お歯黒に引眉となるとほぼ白虎社になる。その顔はもはや滑稽描写につかえない。つかえるのはホラーだけである。本格的な時代劇のばあい、侍女や女将がお歯黒と引眉になっていることがあるが、メインキャラクターならば、時代考証を端折るにちがいない。
なぜなら、それは現代社会において、あきらかに、きもちわるい顔だからだ。

ほんとうに、われわれの美意識は、変化したのだろうか。
──ていうか、美意識というものは、これだけドラスティックに変化するものなのだろうか。
ほんの100年前には、白虎社のようなキモ顔が美しいと見なされていた──ということを、あなたは信じられるだろうか?
個人的な考察だが──じっさいあまり変化していないのではなかろうか。

ネットで大昔の美人という触れ込みで楠本高子という女性の肖像写真をよく見かける。シーボルトの娘、楠本イネの子となっており、強制性交によって生まれた──とあり、高子自身も強制性交によって男児を出産している。──とあった。

かのじょは(なんとなくクリステンスチュワートに似て)きれいだし、きれいと見るならば、お歯黒や引眉──を美しいと定義していたことが、納得しにくい。
かのじょはいたるところで江戸の美女と紹介されているのだが、じっさいその美しさを生成しているのは、西洋人の血が混じっているから──に他ならないからだ。
白虎社と楠本高子を同時にきれいと見なす審美キャパシティなんて全く考えられない。

知ってのとおり、アジア人が外科的に美人化をはかるなら、それは、アジア度を払拭する整形をいみする。
アングロサクソンが、彫り深い顔立ちを、わざわざ平板に整形した──そんな珍奇な話は聞いたことがない。
生まれながらにして、そんな彫りをもっているのは、日本人では桑田元投手のご子息くらいなものであって、美醜の観点からするならば、われわれとて、白人至上主義とみていいのではなかろうか。

漠然とした感慨に過ぎないが、日本人はしばしば、日本の美などと言ってみせるが、それについて、心から愛着を持っている──とは思えない、ことがある。

この映画は、三池崇史監督が、アメリカのテレビオムニバスシリーズ「マスターズオブホラー」向けにつくった一編とのこと。

こけおどしなグロテスクと、徹底したAbused Womanがあるだけで、特筆することはない。

ただ、思ったのは、もともとアメリカ市場を想定してつくられているゆえに、お歯黒がない。お歯黒がアメリカ社会にとって、完全に理解不能の習俗であるから──だろうが、それならば、むしろすすんでお歯黒にすべきだった。そのほうが「こけおどし」になったんじゃなかろうか。

映画には原作者の女性が加虐趣味な女将に扮して出演しており、遊女に拷問する。その拷問に、歯茎にかんざしを何本も刺して、強制開口させるというのがあった。その顔がスピークアウトを思わせた。──ので、こんな書き出しになったw。