津次郎

映画の感想+ブログ

皮相の哀しさ 宇宙でいちばんあかるい屋根 (2020年製作の映画)

宇宙でいちばんあかるい屋根

2.8
新聞記者という映画で、面白いな──と思ったのは映画ではなくwikiにあった以下の一文だった。

『監督の藤井道人は、企画を持ちかけられた当時、新聞も読むタイプの人間ではなく、政治にも無関心だったために自信がなく、オファーを2回断っている。』
(ウィキペディア「新聞記者(映画)」より)

オファーを2回断った──ということは、3回目で承諾した、ということだ。
いったいなぜ、この映画(新聞記者)の製作陣営は、藤井道人氏にしつこく3回も打診したんだろう?

わたしの勝手な/個人的な想像は、この話に実体がまるでないから──である。

この原案を書いた新聞記者氏はいわばドンキホーテであり、風車に出くわすたび、それを巨人だと思い込んで、全力で突撃し(官房長官に何十回も質問するだけなんだが)跳ね返される。(官房長官が疲れてしまうだけなんだが)

かのじょは、この平和な日本に住み、叫び声も爆弾も降ってこない、安全な住居で、毎日お腹いっぱい食べて、毎晩子鹿のように安らかな眠りを眠っている──にもかかわらず、じぶんは圧政と戦っているヒロインだと、ひとり合点している──わけである。

そんなサイコパスな妄想記者が、平和な日本を危険きわまりない場所だと告発した映画が「新聞記者」だった。世界で一二を争える犯罪の少ない国を、である。信じられますか?

そんな話に実体なんかあるわけがない。
実体がない話だから、雰囲気/空気感/描写で持って行けるタイプの叙情型映画監督を充てたかった。だから3回も藤井道人氏に打診したのだ。
描写が精密だったり、社会派の監督では「新聞記者」に実体/内容がないことがバレてしまうからだ。

狙いどおり、新聞記者は藤井道人監督のいい意味においての曖昧さで、成功をおさめた。

したがって、わたしの個人的な感慨においては、妄想を具現化した映画「新聞記者」はメルヘンである。メリーポピンズとおなじジャンルの映画だ。
映画「新聞記者」にたいして、よくぞ言ったと称えているひとは、たぶん記者と同じような妄想癖があるのだろう。

同じくウィキペディアに『ヒロインの女性記者役に至っては引き受けてくれる女優が誰も居なかったため、しがらみのない韓国出身のシム・ウンギョンが選ばれたと報じられている。』とあるが、これは広報を目的とした誇張だと思う。
大勢の女優が、のどから手が出るほど役が欲しかったはずだ。「誰も居なかった」などと寝言をぬかしてもらっては困る。

「新聞記者」は思わせぶりなだけでヤバい描写なんかひとつも存在していない。現実がヤバくないわけだから。
──と言うと、陰謀論の支持者は『あ~あ、おまえみたいなシープルはかわいそうになあ、体制側に欺され、搾取されていることを知らんのだよ』とか、憐憫をしめされるわけだが、まあ、どういう妄想をしようと人様の勝手である。

わたしのも個人の解釈/妄想に過ぎない。

それは、ともかく。

この映画にも、同監督の現実とメルヘンの融合のたくみさはあらわれている。

それは主人公つばめ(清原果耶)の幻想であり、自分だけが見えるメンター/イマジナリーフレンドがいるという設定をもった物語は、いっぱいあるが、いま思いつくのがないが、ここには星婆というキャラクターがいた。

その鷹揚な樹木希林のようなポジショニングを桃井かおりが請け負っていて、それは雰囲気がよかった。いつもながら独特のしゃべりかた。日本語の響きがいい。

ただし、メルヘンの質感が、変則で、ストンとおちてこない。

たとえば、たとえばであるが、虎が高速でぐるぐる回るとホットケーキになる──というメルヘンは、色的にも情景としても、ストンとおちるが、この物語は、宇宙でいちばん明るい屋根──だから、なんなの、という感じになってしまっている。

寓意が、なにがしかの象徴もしくは普遍になっていない。ことに加えて、主人公の哀しみに、切実がない。清原果耶が悲しげな顔をするので、つられはするものの、じっさい話になんら切実はない──のである。

ただ、なにしろ雰囲気が持っていく。空気感だけで哀切を表現してしまう。新聞記者の制作陣が3回オファーしただけのことはある。