津次郎

映画の感想+ブログ

ミッドナイト・スカイ(2020年製作の映画)

ミッドナイト・スカイ

2.4
1北極圏基地と2宇宙船内と3男の回想が、交互に描写される。

1基地内は、髭のクルーニーと、少女がおもしろいコントラストだった。
2船内は、しょうじき何をしているのか、したいのかわからなかった。
3回想は、クルーニーの若いころ──と思われるのだが、別人が演じているので、誰の回想なのかがわからなかった。

結論から言うと、映画は失敗している。
上記の1、2、3が、三つ巴になっているが、連帯性がなく、北極と船内が別の映画のような印象で進んでいく。
北極だけか、船内だけか、どちらかにすべき映画だった。
ただし、結論も言いたいことも、わかった。(と思う。)

以下は、わたしが個人的に把握したこの映画の構造/あらましであり、勘違いしている可能性はある。(ねたばれあり)

ルーニーは余命いくばくもなく、終の住処として、北極基地に残留を決め、地球への帰還途中にある宇宙探査船アイテルとの、通信を試みている。

なんらかの汚染によって、地球は壊滅し、僅かな生き残りは地下にいるだけであり、探査船アイテルが降り立てる地表は存在しない。
だから、きみたちは帰ってこられない──と伝えるために、通信を試みている。

状況から把握できるのは、地球での汚染が進む段階のどこかで、地球型惑星(人類が引っ越すことができる新天地)をさがす探査船アイテルが組織/出発したこと。+今、かれらが、それ(新天地)を見つけ出し、報告するために地球へ帰還途中にあること。である。

残された地表は北極圏基地だけで、そこに、いわば地球最後の男(ジョージクルーニー)が露命を全うしようとしている。
が、たまたま基地に置き去りになってしまった少女に出会う。

ただし、その少女には、なんとなく、不釣り合いな「身ぎれいさ」=非現実感があるため、クルーニーの幻想落ちではなかろうか、──の気配は感じた。

が、しかし。
冒頭で、娘がいなくなった──と狂乱している母親の描写があった。

だから、その「娘」が、取り残されてしまった少女であろうと、とりあえず、思った。

が、しかし。
じっさい少女=アイリスは、幻想なのである。
死にゆくクルーニーが見ているイマジナリーフレンド──なのである。(と思われる。)

が、しかし。
イマジナリーフレンドの少女アイリスは男の娘であり、しかも探査船アイテルには、成長したアイリスが乗っていて、父娘で最後の通信をする──構造になっている。(たぶん)

その構造に+して、探査船内のドラマがある。宇宙嵐によって女性クルーの死があり、また汚染した地球へ、それが自殺行為と解っていながら、家族や仲間への思いから、突っ込む男性クルー(2人)もいた。
さいしゅうてきに船長とアイリスだけが残ってどこかへ向かっていく。終。

こまかいところかもしれないが、いったん、少女に生身の実体を与えるために=観衆をあざむくために、冒頭に、娘がいなくなったと叫ぶ母親の描写を挿入した──と思われるが、かえりみて、それを考えると、もっとスマートにできた気はした。

ルーニーが水没しそうになる描写と、女性クルーの事故死が、要らない。悲哀も訴求しているポイントも明瞭だが、見ている側としては、感動には至らなかった。

顕著な特長は、北極圏と宇宙船内の、別働隊な感じ。
確かに別に撮ったと感じさせる気配で、新型コロナウィルス禍下らしい(じっさいなぜかは知らないが)リモートな仕上がり。およびリモートな父娘の別れが描かれていた。と思う。

新型コロナウィルスが終わっても、元通りになること、ならないことがある。たとえば職場や学習では禍下でついたリモートの機器やアプリケーションや慣習が、あるていど継続されると思われる。一般庶民の家ごもり/中食/家呑み等もあるいていど継続/慣習化し、映画は、配信サービスでの公開が増えると思う。ネットフリックスやディズニープラスが映画を牽引していく気がする。

ところで、わたしが懸念していることは、マスクです。
人間社会において、これほど過ごしやすいアイテムはない。
いまとなれば、若い女たちが、平常時に、健常にもかかわらず、なぜマスクをしていたか、ぜんぜんわかる。
見た目において、これほど明瞭な意思表明をする『社会参加忌避アイテム』はない。
目深にかぶった帽子とマスクがあれば、全身全霊で「わたしはあなたと関わりたくない」を表明できる。サイコーです。

(むろんそんな心配をしなくともオジサンと関わりたいひとはいないが、そういうことではなく、たとえばわたしたちが住む街のような、狭い社会で、顔見知り/知人/友人を避けたいばあいに、声をかけないでくれ──というような意思表明ができるのがマスクなわけである。)

新型コロナウィルスが終わったら、マスクをせずに、外を歩かなきゃなんないわけだが、わたしには、もはやそれができる──自信がない。