津次郎

映画の感想+ブログ

優しさとホスピタリティ パブリック 図書館の奇跡 (2018年製作の映画)

パブリック 図書館の奇跡(字幕版)

3.5
エミリオエステベスというとブレックファーストクラブのいんしょうがずっとある。
レポマンの若い彼も、うっすら記憶はある。カルトとして紹介されていたのをVHSで見たのだが、どんな映画だったかよくおぼえていない。ただSaturday Night Live!Monday Night Football!と叫ぶところを覚えている。

何年か経ってThe Way(2010)で、なつかしいエミリオエステベスを見た。
星の旅人たちと邦題されていて、夭逝した息子の巡礼の旅を、父親がひきつぐという話。監督を兼任しており、映画内ではエステベスは亡くなった息子であり、じっさいの父親のマーティンシーンが父親を演じていた。

ハリウッドでは、俳優が監督になるのはよくあることで、そのこと自体に驚きはない。
ただし、あちら(ハリウッド)の人が監督へ転身or兼業するばあい、付け焼き刃でなく、まともな監督になる。
要するにあちらでは、俳優をやっていた人が、いい映画を撮る確率が、ものすごく高い。
個人的には、そのことに、いちいち驚く。

イーストウッドのように、すでに監督業で周知されたひとも大勢いるし、人知れず企画をあたためている俳優もいる。
俳優がいい監督になり得るならば(ハリウッドにおいては)俳優業に監督を育てる実効プロセスがある──のかもしれない。

日本では俳優から監督へ転身して成功した例を知らない。とりあえず思いつく人がいない。
わが国にもおそらく映画監督養成学校があるのだろうしNDJCなるプロジェクトも聞いたことがあるが、まともな映画監督がぜんぜん生まれないってのは、どんな様相なんだろう?

そのことに「12年も英語学んで一言も話せないってなぜですか?」的なギモンを呈する人っていないんだろうか?
知らない人間の歯ぎしりだが、日本で映画に携わっている人々って映画をなんだと思っているんだろうか?

ブレックファーストクラブのアンドリューには、現実のエステベスとかさなるところがあった。
彼は典型的な体育会系で、まじめな競技人(レスリング)だが、親の期待や勝ちへのこだわりに、心底疲弊していた。
終始ふまじめなジョンベンダー(ジャドネルソン)とソリが合わないのは道理だったが、その位相が、ハリウッド一やんちゃな弟(チャーリーシーン)をもったエステベスと重なった。

ジョンヒューズが、かれに悩みを吐露させたときから、わたしはエミリオエステベスの味方だった。
「(おやじを口まねして)アンドリュー、おまえはナンバーワンじゃなきゃならん。うちの家族に負け犬はいらん。勝て!勝て!勝て!」と泣きながら言ったエミリオエステベスが忘れられない。のである。

ハリウッドセレブの子として生まれ、騒動ばかりおこす──とはいえ人気者の弟の、つねに影にいたエステベスは、それゆえ、目立たずにまじめに生きる人々にとって最高のバディだったのではないだろうか。

むろんハリウッドスターである彼の内面は、あずかり知らぬことだが、The Way(2010)には、なにかを克服したひとの良識/良心があった。と思う。
つまり、久々にエミリオエステベスの監督業を見て、そこにエミリオエステベスの来歴が紹介されていたわけでもないのに「苦労したんだね」という感じがした──のである。

映画を見て、良いか悪いかジャッジするまえ、まず何がわかるか──といえば(つくったひとの)頭の良し悪しと、人生の経験値──である。

逐一、日本映画に絡んで申し訳ないが、これらのことから、映画をつくるにさいして、何が必要かといえば、それやめて働け──ってことじゃないだろうか。

しばしば学校教師にたいして、同様の見識が叫ばれる。
人を教育するのなら教育学部でまなぶよりも、人生経験を積むべきだ=働くべきだ──の世論は昔から定石である。これは多くの学校教師が、いっさいの社会経験がないまま、つとめている事実にもとづいている。

この見解が、わたしたちが目にする未成熟な日本映画に、スッポリ当て嵌まってしまう──ことはないだろうか?いますぐ映画をつくるのをやめて働くべきだ、と思ったことはありませんか?

創作動機も重要である。
ポールダノのワイルドライフを見たとき、改めて思ったのは、俳優になって、映画にたずさわっているのは、彼/彼女には、なにかつくりたいものがあるから──の構造である。
ジョエルエドガートンもBoy Erasedをつくった。
レッドフォードは普通の人々を、コスナーはDances with Wolvesを、ショーンペンはIndian Runnerをつくった。

すなわち、ハリウッドのばあい、つくりたい映画があって、技量をまなび資金をあつめ人材を築くために、とりあえず俳優業から入った俳優が多い──のではないだろうか。

だからこそ、監督へ転身した際、高いクオリティの映画を撮る基礎構造を持っている──わけであり、先に俳優で有名になってしまったが、むしろ、彼/彼女は、それをつくるために有名になった──はずなのだ。グレタガーウィグだって典型例である。

また、しばしば映画の謳いに構想ウン十年というのがあるが、商業映画でなければ、長い創作動機があるのはとうぜんで、子供の時からあったとしても、不思議はない。韓国映画のはちどりには着想から30年を超える月日があったが、構想ウン十年と喧伝されていただろうか?

クリエイター=映画監督ならば、つくりたいものがある──はずだ。そしてそれは、昨日かんがえたとか、さっき思いついたとか、の軽佻なアイデアでないものが、望ましいと思う。そんな長い構想を、鬼才なる日本映画に感じることができるだろうか?

牽強付会にdis日本映画してみたが、この映画とは関係がない。

だれであろうと、図書館を利用したいなら、そこが酔っ払い/浮浪者/ホームレス/ドラッグアディクトのたまり場となっていて、いいはずがない。
このばあい、善意と秩序が、うまく噛み合わない。

外は寒く、夜間入館できなければ、文字通り凍死する。が、そのばあい政府/自治体が開放するのは、しかるべきシェルターであって図書館ではない。
図書館が、かれらの溜まり場と化していたことが、事件の素地をつくっていたが、それがこの話の面白さでもある。

映画には、エステベスが愛するシンシナティの街とその図書館、社会から脱落した人々と、かれらに同情や共感をよせる親切心が描かれている。
また敵対者を、たんなる咬ませにしない。かれらだって、かれらなりに疲弊している。ボールドウィン演じる刑事も、クリスチャンスレイター演じる市長立候補中の検事も、哀感があった。
クリスチャンスレーターがエステベスからこの映画の台本をもらって読んだのは10年前だった──という2017年の海外の記事があった。このThe Publicも長い構想のすえに完成した映画──なのだ。

映画はなにも解決していないが、エステベスが言いたかったのは、優しさやホスピタリティのようなシンプルなメッセージだったと思う。
もし、新型コロナウィルスや、ジョージフロイドの死とその後の暴動、の後だったらエステベスはこの映画を撮らなかっただろう。いい映画だけど、いま(2021)見ると著しく時宜を失う映画でもある。
それは価値をスポイルはしないけれど、すでに映画内が平和に思えてしまう。千人に一人が亡くなっているアメリカ/アメリカ人だったら尚更そうだろう。