津次郎

映画の感想+ブログ

韓国版 カンナさん大成功です! (2006年製作の映画)

カンナさん大成功です!(字幕版)

3.5
原作のことは知らない。
また日本版の映画もあるが、見たことがない。
カンナさん大成功です!と言ったばあい、おそらくこの韓国版の映画がもっともポピュラーではないかと思われる。

ストリーミングサービス=Netflixもあり、日常的に韓国のエンターテインメントに親しんでいると、日韓のニュースが気になることがある。

政治を知らず興味もないが、最悪の日韓関係──そう言われて久しい。

韓国の裁判所で、従軍慰安婦をめぐって日本に賠償命令の判決が出た。(レビュー投稿時(2021/01)の時事です。)
ネットは、いいかげん断交しろよで盛り上がっている。ニュース自体も、それに対する反応も、いままで見てきた現象であり、これから見るであろう現象である。

そうすると、政治上のこととはいえ、毎度のこととはいえ、なぜ、わたしたち日本人は、敵対視されている韓国がつくったエンターテインメントに夢中になっているのだろう──という矛盾を感じずにはいられないのである。
すごく考えるわけじゃないが、その感じは、いつも漠然とある。

愛の不時着は、日本で、かなりヒットした/している韓国製ドラマではないかと──思われる。個人的な憶測だが、ヨン様で盛り上がった冬のソナタに匹敵するような気がする。

冬のソナタの時代には、Netflixはなかったし、外国製のエンターテインメントを享受する方法も環境も、世代や層も、価格体系も、コンテンツの質や量も、00年代初頭と今とでは、くらべようがないほど変化している。
いま韓国製の映画/ドラマ/アイドル、もっぱんなどのYouTubeは、かつてよりずっと日本人にとって、日常的である。

おそらく、一般人は、韓国を、エンタメとして見ている。
イデオロギーに属せず、また、韓国人から直截に攻撃や迷惑行為をされているのでなければ、韓国は面白い──と見てしまえるからだ。
まさにエンタメである。

大統領がやめると必ずタイホされる。歴代みんなタイホされていて、現職もそうなるだろうと推察されている。どこにそんな国があるんですか。それらの上を下への大乱闘は俯瞰して見れば面白い。

社会の壊乱が、どんだけマンガみたいな人たちなんだろうか──の面白さを提供し、現実がエンターテインメント=映画/ドラマ/アイドルなどなどの面白さと重なってしまう──わけである。

すなわち民族の特長として、愛憎と利己と怨嗟の情味が過多すぎるゆえに、エンターテインメントが面白くなってしまうのは必然──と感じてしまうのだ。

映画レビューでは日本映画をこき下ろしてばっかりいるわたしだが、態度としては、保守なので、なにかにつけてよこせよこせ言ってくる韓国はけしからんと思うし、あいトリの主催関係各者なんか刑事罰でいいとさえ思う。それはふつうに思うので、ネット上の紛糾と同じように国交断絶しようのシュプレヒコールに「おう」と応じることはやぶさかではないが、断交したばあい、韓国エンタメの享受に関してはどうなるだろうの懸念がない──わけではない。

おそらく日本で、愛の不時着を見ている人々は、何にもかんがえていない──のかもしれないが、国交を絶つと、どんなことがおこるのだろうか。が、わたしはけっこう気になる。

ただエンタメに関して日本は輸入超過をおこしているわけではない。

日本のエンタメもアジア市場があるはずで、とりわけAVはアジアに冠たる先進だと思う。
よくあることだし、じっさい海外で感じたりもすることだが、世界中でもっとも知られている日本語とは「やめて」とか「すごぉい」とか「いくぅ」とかのAV中の嬌声であることがひじょうに多い。
わたしは冗談を言っているわけではない。
蒼井そらは中韓の男性にとって公然たる理想の女性像である。かのじょを外交特使にすると、中韓の緊張を一気に緩和できると完全に本気で思っている。

逆にいえばヒョンビンとイェジンが夫婦で外務政務官なんかやれば、庶民は骨抜きになって、もうどこへでも少女像立てて下さい──って感じでヤラれちゃうんじゃなかろうか。とも考えられる。

なにかが映画化される。おなじ原作が、日本でも、韓国でも、映画化される。

サニー、あやしい彼女、鍵泥棒、リトルフォレスト・・・他にもあると思うが、そのばあい、比べるつもりがなくても、どちらが面白かったかを、頭の中で、わたしたちはやっている──はずである。

さいわい、挙げた映画に関しては日本版のクオリティも悪くない。ただし、一般庶民は、映画製作に関しちゃ韓国のほうがうわてかもしれない──を薄々感じてしまっている。

庶民レベルでそのきっかけを提供したのは「カンナさん大成功です!」の韓国版だったと思っている。
個人的な想像にすぎないが、また、日本での興行成績が(すさまじく)よかったからでもあるが、この映画を見て、漠然とにせよ──おや韓国のほうが映画うまいな、と認めた人は多いのではないだろうか。

つまり日本人の自国のエンターテインメントにたいする諦観は、韓国映画が台頭してくる00年代からカンナさんの2008年辺りまでに、確定的なものになった。と個人的には見ている。のである。

じつはこの「カンナさん大成功です!」は日本の漫画家の原作とは似て非なる、舞台/設定/筋書きを持っている。しかし映画は日本で大ヒットした。
ヒットによって、逆に、それが日本の漫画を原作としていることが、知られた──わけである。

どういうことかわかるだろうか。

わたしは未読のこの漫画について、下げるつもりは全くないが、これは韓国の制作陣が、映画として面白く翻案した──ということだ。
そのまま食っても美味しくない話を調理したわけである。このばあい原作は「モチーフ」に過ぎない。ジソプとヒョジュのただ君だけ(2011)をご存じのかたも多いと思うが、あの映画、元ネタはチャップリンの街の灯である。

この、原作よりずっと、ポピュラリティを勝ち得るメディアミックス(映画化等)が出来てしまう現象は、潜在的に、かなり消費者を動揺させる。と個人的には思う。

どういうことかわかるだろうか。

カンナさん大成功です!と聞いて「韓国映画のことですね」と一般に認知されているなら、──もし誰にも「日本の漫画のことですね」と認知されていないのなら、それは韓国らしからぬスマートな外交戦略になり得ている──と言えるからだ。

たとえどうでもいいこと──だとしても、多くの日本国民が、それが日本の漫画であることを知らず、たんじゅんに韓国映画って面白いなあと思ってしまうのなら、これほど平穏で効果的なマスコントロールは存在しない。──と思いませんか?要するにこの映画は日本も原作者も喰ってしまってるわけです。気づいていましたか?

自国でも、他国にたいしても、すぐれたエンタメの波及が、庶民感情と無関係なはずがないのである。だからいい映画つくんなきゃいけない──と思うわけです。

わたしのようなアンチ日本映画人種はむかしから山ほどいる。のは知っている。だが、つまらんものをつまらんと言っているだけで、別に日本の悪口を言っているわけではありません。

この映画の白眉は、キムアジュン扮するカンナ(ハンナ)さんが、やせてきれいになって、ショーウィンドウにあるすてきな服を見初めて、さっそくそれを着て、街を闊歩するシーンだ。

われわれはふだん闊歩をしない。闊歩ってどんな歩きを言うんだろうか。おそらく下妻物語のいちこ(いちご)が代官山を歩くシーン、もしくはこの映画でカンナさんが自意識過剰状態で歩くのを闊歩というのではなかろうか。

きれいになった、それを誇りたいとして、ひとはどうするだろうか。
いや、もちろんコメディなんだが、街を「わたしはきれいなのよ!」と、まるで絶叫しているように仰々しいモーションで歩く──のではなかろうか?
それをやっている。
わたしは当時さえかなりエンタメに慣れていたはずだが、爆笑した。

もちろんキムアジュンの全方向な超絶コメディエンヌっぷりが映画の楽しさの素因だが、やはり映画は韓国のほうがうまいなあ、と、当時つくづく思った──ことを覚えている。