津次郎

映画の感想+ブログ

ありふれた奇跡(2009年製作のドラマ)

5.0
翔太(加瀬亮)の実家が、左官屋で男所帯でした。
父が風間杜夫、祖父が井川比佐志です。

家にいるとき、なにかの拍子に翔太が「あ~」と言います。
炒め物をつくっている時なんかにやります。
目を固く閉じて、仰向きながら言います。
この「あ」には濁点がつきます。

翔太は加奈(仲間由紀恵)と、ある事件をきっかけに知り合い、ぎこちなく交際しています。
デートなどイベントのつど、一喜一憂の日々をおくっています。
加奈との交際で、自分のとった言動や行動が、ふとした瞬間に頭にうかんできます。
それが「あ~」になります。

恥ずかしい場面を思い出してしまったので、その慚愧に耐えるため、またそれを振り払うために「あ~」と言うわけです。

これが世間一般に認知されている挙動なのかわかりませんが、私も一日に二三回はこれをやります。

職場や公共ではありませんが、家で単調な作業をしているときに、過去の恥ずかしい場面が、フッと脳裏に浮かんできます。

とはいえ、翔太のように、女性とお付き合いしていて、昨日のデートを思い出した──とかではありません。

過去、それが何十年前であろうと、恥ずかしく気まずくやりきれない、あの時、あの場面が、不図、浮かんでくるのです。

食器を洗っているとき、コーヒーフィルターを折っているとき、まわる洗濯槽を見下ろしているとき、歯を磨いているとき、あるいは翔太のようにフライパンで炒め物をつくっているとき。

ともすれば、湧くほどに、過去の恥ずかしい場面が浮かんできてしまうこともあります。「あ~」で処しきれなくなってしまい、いきなり何かを食べはじめたり、充分なのに音量をあげたり、用もなく出かけたりすることがあります。

とはいえ、わたしはぜんぜんナイーブなお年頃ではありません。
生まれて半世紀経っても「あ~」の『思い出しうめき』が止みません。
むしろ慚愧が強くなってきています。
「あ~」では振り払えず、とっさになにかを口走ることがあります。いずれにせよ、ひとりでいるときでなければ、やらないことです。

便宜上、思い出し笑いの一部を変えて『思い出しうめき』と呼びましたが、そんな言葉はありません。

言葉はありませんが、個人的には、ポピュラーな所作です。

ポピュラーな所作なのに、ありふれた奇跡の加瀬亮以外には、テレビでも映画でも見たことがありません。

かたちを変えてあるのかもしれませんが、ありふれた奇跡の加瀬亮の『思い出しうめき』がもっとも現実的です。

じんせいは、恥ずかしい思い出だらけです。
何かを思い出すたび「バカかおれは」という感じがします。
仕方なく「あ~」と言います。

恥ずかしい思い出が浮かんでくる頻度は、人それぞれですが、わたしはそれが多いようです。
時間が経てば恥ずかしさが和らい(やわらい)でも、よさそうなものですが、よわったことに、わたしは自分でもびっくりするような古い記憶に「あ~」となります。

そんな、わたしにとって『ありふれた奇跡』が得がたいドラマだったのは、ドラマとはいえ他人様の『思い出しうめき』を見ることができたからです。
自分だけの特殊な所作でないことを、それが証明してくれたからです。

かんがみれば『恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。』(太宰治「人間失格」)のような感慨は、とりわけ耽美でも、高尚でもありません。万人に共感のおよぶ感慨だと思うのです。