津次郎

映画の感想+ブログ

透明人間(2019年製作の映画)

4.5
素人なりの感覚で、例証や包括的なことを言ったりすることがある。

たとえばアメリカのホラー映画でもっともHotな新鋭はAとBとCの三人の監督です。とか。
Dは、もっとも嘱望されている映画監督のひとりである。とか。

そういった発言は、じぶんの僅かな映画体験と、僅かなニュースの切れ端が根拠である。

あんがい、知られているようなことしか言わないので、そう大きくハズすことはないが、素人の知る範囲内だから、正確性や網羅性はない。

むろん素人だし、原稿料が出ている映画情報じゃないので、それでもいい。

ただ、後になって、じぶんの言ったことの遺漏にけっこう気づく。
AとBとCと言ったけれど、E監督を取りこぼしていた──とか。
D監督を挙げたけれど、F監督のほうが、上だった──とか。

持っている情報の欠損や、たんなる思い込みに、あとになって気づくわけである。

ただ、それが素人が得る情報量の寡なさに由縁していると思う一方、アメリカの底知れなさに由縁してもいる、と思うことがある。

つくづくアメリカは一枚岩じゃない。

2015年にインシディアスの続き物を監督したリーワネルは、そのときは、俳優兼脚本家の監督業進出おつかれでした──くらいにしか思われなかったが、Upgrade(2018)で、頭角をあらわした。

俳優、ライター、撮影、スタントなど、アメリカは何らかの映画関係者が監督業へ回ったとき、かんぜんに化ける可能性が、非常に高い。

この層の厚み。
たとえば日本では、監督業でないひとが、監督へ回ったとき、それがいい映画になる可能性は約0パーセントである。そもそも彼/彼女がまっとうな映画監督になりえる根拠は何もない。
知らないことなので憶測だが、たぶん現場のノリ→「監督やってみない?」「え、いんですか?」という感じだろう。

ところが、アメリカ(ハリウッド)には、基本的に、映画をつくりたいと思っている人間が集まってくる。
彼/彼女は、ライターか俳優かスタントかカメラマンか、あるいはもっと下位の衣装や小道具や大道具のデパートメントの一員だったとしても、いずれ段階的に上って監督をやろうと思っている人間の集まりと言っていい。

だからアメリカは一枚岩じゃない。

ずっとソウシリーズ等の俳優兼ライターをやっていたリーワネルがUpgrade(2018)をつくれば、なるほどと思える。そして、そのたび、アメリカで嘱望される新鋭監督の地図は、書き換えられる。

そういう日進月歩の勢力図を、素人が補足できるわけがない。
戦後から無風状態の日本映画界とはわけが違うのである。

それでも素人は、旧弊をブラッシュアップした映画を見た感銘に寄せて、包括的なことが言いたくなってしまう。

かんたんに言えば「すげえ映画だな」と思ったついでに「リーワネルはもっとも期待される新進監督のひとりである」みたいな大上段発言をしてしまうことが、個人的には多い。

言い換えると、確信めいて大上段な発言ほど、その監督や映画に、感銘を受けた──わけである。

透明人間──これをモチーフに映像作品をつくりたい、と言ったら、どんなアイデアが集まるだろう?

日本映画の鬼才や重鎮ならば、女風呂に闖入させたい──と言いだすかもしれないが、そういうのは放っておいて、冗談抜きで、透明人間を完全にブラッシュアップさせようとしたら、どうなるだろう?

これはひとつの現実的な回答だと思う。

映画は、透明人間をモチーフにした映画というより、ドメスティックバイオレンスから逃げる女性を描いたサスペンス映画の肌感をしている。

最初の命題は透明人間をモチーフにして映画をつくる──だったわけである。
前述したとおり、おそらく男ならば、冗談を交えて、透明を利用して裸体を覗く──ことを考えるはずだ。

ところがこの映画は、女風呂に闖入もさせず、Hollow manにもせず、むしろDVからトラウマに怯える女性を具現し、フェミニズム的啓発へ進展させている。のである。

つまり透明人間から連想する、ありふれた発想とは逆のことをやって、女性が理不尽と戦う映画に仕上げている──わけ。!。

見えない敵をあいてに、どうやって戦うのか、その驚心動魄のサスペンスに加えてMeTooにさえ寄せる同時代性。じょうずで大人なモスが価値を上げ、個人的にラストは痛快だった。

このブラッシュアップの凄み。間違いなく頭のいいひとがつくっていて、それが伝わってきた。