津次郎

映画の感想+ブログ

教授はやっぱり教授です、クイズダービーを見て勘違いした学歴のこと

むかしクイズダービーというクイズ番組があった。

何人かの著名人がクイズに答える。
常連枠とゲスト枠があった。
二人組の一般参加者が誰が正解するかを予想して、賭ける。
賭けられた著名人がクイズに正解すると持ち金が増える。

倍率があり、当たんないだろうな、と思われる人の倍率は高い。
司会が大橋巨泉で、常連回答者のなかに、はらたいらと篠沢秀夫がいた。
漫画家のはらたいらは博学でなんでも知っている。だから倍率は低かった。
篠沢教授は、楽しいキャラクターだが、ものを知らない。だから倍率が高かった。

効率よく賭け、いちばん多く稼いだ組の勝ちで、最後のクイズでぜんぶ賭けて逆転──なんてこともあった。

はらたいらと篠沢教授は、現代人の見識に、ひとつの定石をあたえた。

それは、学歴がなくても頭がいい=知識のひろい人がいること。立派な学歴があっても、ものを知らない人がいること。
ふたりはそれを教えてくれた見本であり象徴だった。

ただ、それは確かなことだったが、援用はむずかしかった。
つまり、成績の良くない子供が、はらたいらを理由に、親を懐柔することはむずかしかった。

一般的に信じられている人生の王道がある。
いい大学へ行き、一流企業へ入る。──ということだ。
それは、間違いなく正しい。

年をとるほど、失敗を重ねるほど、振り返って、そう思う。また時代の変遷にかかわらず、そう思う。たとえば、いまやYouTuberがなりたい職業であり、稼いでいる時代──なのは現実だが、一般人がそれを亀鑑とするのは賭けだ。抜け道や回り道は王道と比べることができない。
かえりみてキャリア是正しようと思ったときには手遅れのことは多い。

若い頃は浮き世に飲まれやすい。が、あの時こそ進路を決定づけた時期だった。──と振り返って思い出す。有頂天で根拠もなくいける気がした。それが若さだった。

誰しも経験があるだろうが、立派な学歴や肩書きを持ちながら、意外にモノを知らないという人物・現象に出くわすことがけっこうある。

で、たいしたことないじゃん──と思ってしまう。それが、ことごとく間違いなのだ。「たいしたことないじゃん」はいずれ取り返しのつかない懸隔になる。

篠沢教授のような人は、専門分野で基盤を持っている。
クイズ番組で無知を晒したところで、痛くも痒くもない。
それを勘違いしちゃいけなかった。

鶏口となるも牛後となるなかれ──とは、昔わたしが大学受験のとき、親から慰められるのに使われたことわざである。

牛後とは一流大学で鶏口は三流大学だ。

大胆な転用だと思う。

ところがわたしは鶏口にすらなれなかった。

すると親は、こんどは、はらたいらさんなんて高校しかでてないのに、あんな立派じゃないか、と言ってわたしを慰めた。子供が学歴で失敗すると“はらたいら”は子供の言い訳から親の慰めにとってかわるのだ。

が、親に慰められたとき、あなたは何かを確実に失ったことを、わからなければいけない。老婆心ながらそう思う。

人生とはちがい、クイズダービーには逆転勝利のパワーワードがあった。

「教授にぜんぶ!」

 

鶏口となるも牛後となるなかれ:

《「史記」蘇秦伝から》大きな団体で人のしりについているよりも、小さな団体でも頭 (かしら) になるほうがよい。