津次郎

映画の感想+ブログ

この茫漠たる荒野で(2020年製作の映画)

この茫漠たる荒野で


4.3
がんちくあるツイートで多大なフォロワーをゆうする人物が先月(2021/01)『新聞、月5,000円も払って昨日のニュースが紙で届くってやばいな』とツイートしてトレンド入りした。
わたしもなるほどと思った。

トムハンクスが演じているKidd大尉は南北戦争に出兵した退役軍人で、町をわたり歩いて新聞を読み聞かせることで生計を立てている。

時は1870年。
映画から推察すると、馬で行き来する大陸の町々においては、外界の情報といえば旅人の話ぐらいなものであっただろう。そんな世界と時代をかんがみれば「新聞を読み聞かせるしごと」が興行か行商のような役割を果たしていたことが容易に信じられた。
一定の周期ごと町へやってくる彼にたいして「またKiddさんが来た」が町民の楽しみのひとつ、人気と敬意で迎えられる対象だったことは、疑いもない。

Kiddが読み聞かせるのは、とうぜん数日前のできごとである。ばあいによっては、もっと古いできごとのはずである。なにしろ世界の最新の情報をたずさえているひとが、各地の新聞を取り置いて、馬車にゆられて町を巡っているわけだから、情報に鮮度なんか、ないわけである。

とはいえそれはつまらないニュースだったろうか?見たところKidd大尉の読み聞かせ会場はいつも満席である。ニュースにはみじんも退屈はなかったはずだ。むしろすべてが「血湧き肉躍る世界のできごと」だったはずだ。信じられないほどの価値を持った情報だったにちがいない。

映画の冒頭で、かれの仕事「新聞の読み聞かせ」の前口上がある。かれはこう切り出す。
『またこの町にきたJ・K・Kidd大尉です。今夜も世界の出来事をお届けしましょう。みなさんは朝から晩まで忙しく働き、新聞を読む暇もないでしょう。わたしにお任せを、どうか今夜は面倒なことは忘れて、世の中の出来事を知っていただきたい』

「忙しくて新聞を読む暇もない」とは、庶民の識字率に配慮した物言いである。すなわち、字も読めない、新聞をとる経済的余裕もない、どこへも行けない庶民がいるからこそ、Kidd大尉のしごとが成り立っているわけである。町民にとって新聞の読み聞かせが世界のすべてだったとしてもふしぎはない。

冒頭で引用したツイートは牽強付会だが、今後、新聞は消えるメディアでもあり、新聞社自体が、もはや新聞業で稼いでいない。月5,000円の紙は確かにやばい。ただし(ニュースが)もっと早いほうがいいか、もっと多いほうがいいいかといえば、そんなことはない。
わたしたちは、働いて食べているが、ぶっちゃけ、働いて食べる半径以外のことについて、即時に知らなければならない──ことはない。
情報の発信者や、それを扱うしごとならば話はべつだが、ほとんどの庶民にとって、ほとんどの情報がじぶんに関連をもたない。わたしたちはホリエモンと対談する予定があるわけじゃない。われわれが情弱だからと言って、われわれの仕事にどんな影響があるだろう。クイズダービー篠沢教授と同じで、じぶんの仕事をまっとうしているならば、無知でも、なにも困りはしない。

1870年から150年の間に比べようがないほど変化したが、映画が言っているのは「世界と自分」との関係についてである。
「世界」とは大尉が読み聞かせる新聞のなかの世界のことだ。「自分」とはひょんなことからドイツ少女を拾った大尉の個人的な事情のことだ。
これは現代にも転用できる。たとえばインターネットは世界じゅうの人々とつながれるとされている。しかしみなさんもご承知の通り、それを何年やって、誰とつながれました?インターネットのような茫漠たる世界と比べたらじぶんの世界はちっぽけだが、ちっぽけだけれど、それが自分の世界の総てであることに違いない。それが「世界と自分」である。わたしは、そう転用したが、それは牽強付会だとは思わない。そもそも、Kidd大尉が偶然出会った少女Johannaとゆるやかに打ち解ける絆を描いた映画のタイトルが『News of the World』である。

「世界と自分」をあらわすことによって、映画が言いたかったのは、南北戦争後の秩序が乱れた時代、世界は混乱しているが、それに便乗したり惑わされたりせず、まっとうに生きなさいということ──ではなかっただろうか。
ひるがえって現代といえども、世の中はいろいろなことが起こるが、それらは、わたし/あなたに関係ないから、じぶんの生活や大切なひとをしっかり見つめなさいという映画だとわたしは思った。のである。

見終えて俯瞰するとこれはKidd大尉の戦争後遺症の映画であったと思う。戦場での過酷な体験と留守中の妻の死をへて人間性をわすれた生真面目な大尉が少女との邂逅をつうじて、ふたたび生きようとした映画だった。