津次郎

映画の感想+ブログ

さりげなくいびつ 女王陛下のお気に入り (2018年製作の映画)

女王陛下のお気に入り (字幕版)

4.0
ドラマシリーズの「SPEC」のwikiに、こんな記述がある。

『一方、今井舞は同じく『週刊文春』のドラマ記事で「今期ワースト」「全てが『これ、面白いでしょ』の押しつけ」などと批判している。』
(ウィキペディア「SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜」より)

むろん、これはマイナス意見の切り抜きで、同ドラマは、日本の代表的な異色ドラマとして語り草になっている。──が、「押しつけ」には同意できる。
SPECでなくても、多数の日本の映画・ドラマの演出で『これ、面白いでしょ』の押しつけ」を感じることが、よくある。
個人的に、よく感じるのは『これ、面白いでしょ』の押しつけ」というより『こんな世界を描けちゃってる俺/私って凄くない?』という感じ。
なんていうか、描写を過剰にしているだけなのに、どや顔でそれを誇っている感じ。園子温に代表されるようなスタイル、とでも言えば解りやすい。(と思われる。)

この「どや顔」を(個人的にはほとんどの)日本の映画・ドラマで感じる。
それゆえ、ランティモスの映画は、その(日本映画の)対極にある。と思う。

籠の中の乙女、ロブスター、鹿殺しときて、本作でもランティモスは、奇矯な世界を、涼しげな顔で描いている。「涼しげな顔」とは「どや顔」の対比であって、じっさいは涼しい世界ではないが、言うなれば『僕の描く世界は凄くないし、ぜんぜん、ふつうですよ』みたいなポーカーフェイスで、ゆがんだ世界を描いている。

もし日本映画が「どや顔」をしなければ、それだけで、クオリティが倍増するだろう。
つまり、日本映画のもっともクリティカルな弊害は、監督が映画というものを『天才的な人しかできない、とってもエラい(崇高な)仕事』だと、捉えていることにある。と、わたしはけっこう本気で思っている。(この感慨を裏付けるような日本映画がとても多い。)要するに謙虚じゃない。謙虚じゃないから「どや」りが、画からにじみ出てくる。
勝手な持論に過ぎないが「どや」りは日本映画だけに存在する特長で、黒澤と小津が日本映画にもたらした負のレガシーである。
(もちろん黒澤・小津はわるくないが、天才すぎる双頭が「映画監督はスゲえ存在なんだぞ」──と、後世に及ぶポジショニングをしてしまったゆえ、それに浴する凡人があらわれる、という仕組みがつくられてしまった。←ばかっぽいロジックだけど、自信のある持論です。)

むろん、このレビューで日本映画/映画人を持ち出しているのは、とばっちりだが、ランティモスと並べると大人と子供な対比になるので、牽強付会を承知で比べてみた。

わたしは、籠の中の乙女(2009)にたいへんな衝撃を受けた。いったいこのひとたちはなにをやっているんだろう?なぜ?なんで?どうして?・・・。
だが、もしランティモスが籠の中の乙女をどや顔で描いていたら──「どうだい、不安だろ、怖いだろ、不可解だろ、いったいなにをやっているかって、衝撃受けるだろ?」みたいな承認欲求がにじみ出てしまっていたら──籠の中の乙女は「ふつうの変な世界」だったと思う。

すなわち、監督のどや顔=承認欲求の有無だけで、映画のクオリティは雲泥になる。
なにくわぬ顔で描かれている、奇妙な世界が、どんなに凄いか──を、わたしはランティモスの映画で知った。

ただしランティモスの凄みは、たんにポーカーフェイスで描いているから──だけではない。本作は、アカデミー賞(助演女優)をもたらしているが、メジャーになっても根底にある、歪(いびつ)な世界観はブレておらず、とうぜんクオリティの重心は、作風によるもの。世界中どこを探してもランティモスみたいな映画はないし。ランティモスを見たあとでは近年のデイヴィッドリンチさえも「どや」りを感じてしまう。

籠の中の乙女を見たとき、これは「ヤバい」世界だと感じた。禁忌な感じがした。公的にするのはいけない気がする映画だった。だから、ハリウッドに招聘され映画をつくったことに驚いた。ヨルゴスランティモスの映画に、なんでアリシアシルバーストーン(鹿殺し)が・・・。解るだろうかこの感じ。ランティモス映画に米英のメジャー俳優が出てくるロブスターにも鹿殺しにも本作にも、──なんというか呉越同舟な魅力がある。禁断の世界の描き手がエマストーンを使ってしまう面白さ──がある。

野心的な下女が、成り上がっていく話。
なんとなく、のんきな、滑稽感もある気配ではじまるものの、じょじょにHarshな肌感へと変容していく。個人的に、見えたのは愛憎と「依怙地」である。アン女王(オリヴィアコールマン)はいわゆる癪症だが、脚の疾患をかかえて、それが促進されている。ほんとはサラ(レイチェルワイズ)が好きなのだが、好きを表現するのが、なんとなく悔しい。好きなんだろ──と図星を突かれて、反撥したくなったことはないだろうか?おそらく内懐は、そんな他愛ない葛藤であろうと思う。ただ女王ゆえに、気まぐれが、徹底した残酷な排斥へとつながっていく。その女王の気まぐれに加えアビゲイル(エマストーン)の戦略性にサラは嵌まってしまう。みすみす「お気に入り」を追いやってしまう、にんげんの矛盾した心象が描かれていた。豪奢な宮廷を超広角でとらえる撮影にも瞠目した。