津次郎

映画の感想+ブログ

女優たち(2020年製作の映画)

女優たち

1.0
新型コロナウィルス禍下で、わたし/あなたが、ことさらにじぶんの窮状をうったえない理由はこれが(この惑星)ぜんたいの禍だから。

局地的なこと、たとえば、身の回りでおこった自然災害や火事や交通事故や犯罪などについては、それを喧伝したり、扶けをもとめたり、訴えたりする。ことがある。ほかの人には起きていないことなので。

でも何十億もの人々が被っている新型コロナウィルスについて「こまっています」とは(言ってもいいが、ふつうは)言いにくい。みんなが被っていることなので。

「女たち」という映画の製作舞台裏をとらえたドキュメンタリーとのこと。
「女たち」の出演者だから「女優たち」。
一般に、大家ほどタイトルが短くなり、自信家ほど汎用性の高い語になるものです。ゆえに謙虚ではない大上段なタイトルだと思います。女優を代表し、女を代表してるかのよう。

配信サービスの案内にはこうあった。
『2020年7月、コロナ禍の中何度も中止が噂された映画『女たち』の撮影が強行された。予算は足りず、雨にも悩まされる最悪の条件の中、主演女優たちは奇跡の名演技を見せ、この映画を傑作へと押しあげた。なぜ最高の演技が生まれたのか、その秘密に迫る。』

なぜ、新型コロナウィルス禍下の窮状を免罪符、エクスキューズ、お断り、酌量の資材にするんですか?と思います。
否、新型コロナウィルスを度外視したとしても、作品を「がんばってつくったのですよ」と言ってしまうのは、クオリティを容赦してほしい胸算用ですよね?と思います。
せかいのどこに「がんばってつくった」がセールスポイントになってしまう映画/業界がありますか。
日本独特だと思います。

そもそも。わたし/あなたのまわりのエッセンシャルワーカー、コンビニやファーストフード、医療・介護従事者、配達員、運転手、建設作業員、販売員、教員、駅員、会社員、役人・・・誰でもいいですが、それらの人々は「コロナ禍にもめげずがんばっているんですよ」と泣きながら仕事しているだろうか。

日本の映像作品のなかには、内容が感動ポルノであるだけでなく、製作にまつわる苦労も感動ポルノにして喧伝してしまう「芸風」の監督が多い。です。

戦後まもなく、駅前には、脚をうしなった傷痍軍人が脚代わりの台車に載って、ブリキの缶をかんかん言わせてお恵みを請う姿があったそうです。
ゲッターロボの変体で座型になるやつ、もしくはガンタンクのような・・・といってもわかんないかもしんないけど)
詐欺まがいのがあって、そんな輩はブリキに日当がたまると、人が見ていない隅っこで、正座で台車に隠していた健常な脚をほぐして、さっそうと家路へつきます。

ひとびとはかれの可哀想な境遇に同情してお金を払ったのです。
かれは可哀想な境遇に同情が集まることを知っているので、傷痍軍人姿の物乞いをやったのです。

稚拙というか、トラストリテラシーの低さ、この手の恥知らずな「物乞いの訴求」風な作風を、こじんてきには日本の映像コンテンツに(ものすごく)よく見ます。わたしは詐欺みたいなもんだと思っています。映画を自己弁護や自己肯定の道具にするのやめてください。と思います。

ゴジラVSコングでハリウッドデビューをはたした小栗旬の発言(インタビュー)を幾つか見ましたが、日米の現場のちがいについて繰り返し述べていたのは、スケールの圧倒的格差。金もかけるし、時間もかけること。にもまして、キャストにもスタッフにも余裕があること──でした。ピリピリなムードがない──と彼は言っていました。
とうぜんゴジラVSコングは、コロナ禍下にもめげず、がんばった──ことを宣伝文句にも弁解にもしていません。

わたしは一般人なので、知らない世界ですが、むかしから、日本映画界の撮影現場は、根性論が支配している──ということに、確信を抱いています。
昭和も今もスポ根みたいな現場が脈々と続いているにちがいない──と思っています。

そのような似非(エセ)な厳しさで律せられた場が、じっさいにはまったく機能していないにもかかわらず、ある種の歓喜をもたらすのは、わたし/あなたもご存知のとおりです。

つまり、いっさい高品位・有益・効果的・合理な仕事をしていなくても、根性論(精神論)が、まかりとおっている仕事現場は、ある種の達成感をもたらすのです。
言ってることわかりますよね。仕事をしたことがあるなら(あるていど)体感できることです。

たとえば24時間テレビ
募金番組で走る?なんのために?
むりむりに感動を抽出したいとき、その絵面にしたいとき、意味も根拠も要らないわけです。走る←頑張っている←批判を封じる←雰囲気に呑まれる←内容は関係なし。それが精神論・根性論てやつ。

しょうもない作品をつくっておきながら、クランクアップに感涙して情陸風に盛り上がっている構図とか、ご覧になったことがありませんか?このドキュメンタリーにも冒頭から出てきます。
スポーツでもそうだけど、有効性・合理性のない努力は空しいだけです。日本映画の現場はそういう場だ──と思います。憶測ですが。

泣きの涙で頑張っている姿見せられりゃ、酷評しにくいですよね?
情陸とかで、いっさいクオリティの高いしごとなんかしていないのに、やたらシリアスぶっこいてる「クリエイターみたいなの」いるよね?
一国の宰相が(オリンピック開催を)「コロナに打ち勝った証にしたい」って言うのは精神論だよね?さむいシンボライズだよね?
日本人が好んで使う根性論てのはそういうことだし、日本映画も、そういう世界だ──っていう話。