津次郎

映画の感想+ブログ

ペット・セメタリー(2019年製作の映画)

2.9
昔から見るタイトルである。
80年代にも映像作品があったと思う。
かんがみればスティーヴンキングは、80年代からこんにちまで、ずっと映像作品原作の旗手である。

80年代。スティーヴンキング原作と言うと、かならず(かならずです)「かれは向こう(アメリカ)じゃ三流作家ですからねえ」とか言う山の手の文化人(もどき)がいた。

いま、そんなことを言うあほはいなくなったが、あの頃は、かならず、それを言うやつが存在し、ペーパーバックのホラー作家という代名詞を、少なからず信じてしまった庶民もいた──と思う。

わたしはキングがどんな作家なのか知らないが、半世紀ものあいだ、新しい映像作品の原作に使われ続けている。明白な異彩ではなかろうか。

が今回のリメイクは凡打な感じ。キング原作は大化けするばあいと、陳套へ落ちるばあい──がある。にしても、悪くはない。お金もしっかりかかっていた。

ところでジェイソンクラークは、強面(こわもて)で、悪or敵役でならしてきた人だが、良人を演じるようになっている。
マイケルシャノンやマッツミケルセンやマドンソクなど、海外では、怖い顔系のひとが、スターダムに汲み入れられ、善を演じるようになる俳優行程がある。
日本では悪系のバイプレイから主役級に転じることがほとんどない。

憶測だが、日本人は顔の多様性に免疫がない──気がする。
たぶん日本では色々な顔をした人間がいていい──という多様性が一般には与されず、パターンで見る目が養われる。──のではなかろうか。

アニメーションのタッチで見ると顕著だが、日本では海外のような大胆なデフォルメをしない。ソフトできれいな好人物と、直球なわるいやつの描き分けで善悪が表現される。

現実社会では、とうぜんのことながら、怖い顔をしていて、善良な人間がいるし、イケメンで酷薄なやつもいるわけで、人相には見切れないものがあるが、日本では男女ともにあるていど面が良ければ、内面をさしおいて認める不文律みたいなものがある──ような気がしている。
それがあるゆえ日本では悪系顔の善人役を阻まれてしまうのだろう──と思った次第。

わたしは昔からレイリオッタといういかにもvillainの俳優がお気に入りだが、リオッタみたいな終始anger顔のひとが善人を演じると、なんかすごく、いい──のである。