津次郎

映画の感想+ブログ

ソフィアコッポラ幼少期の思い出 SOMEWHERE (2010年製作の映画)

somewhere [DVD]

4.0
いちばん好きな映画が答えにくいのは、ひとつに決めにくいから、でもあるし、ひとつに決めてしまうと、じぶんというパーソナリティに多様性が失われる、ような気がするからでもある。

それが最良のもの──としてしまうのは、なんか怖い。
おれは他の映画も好きですよ──という懐の深さもあったほうがいいんじゃないか、と考えて、ひとつだけ挙げることを躊躇してしまう──わけである。

しかしとうぜんながら、匿名の一般庶民が誰/何を好きであろうとカラスの勝手*である。その情報に価値どころか値はない。犬猫どっちがすきですか?わたしの好きにあなたはきょうみがありますか?知っての通り「好き」が価値を持つのは、有名人にかぎる。
──わたしは、たんに、じぶんの精神衛生のために、無意味な配慮をしているに過ぎない。そもそもinternetとはそんな無為をする場所であろうと思う。
(*余談だがカラスの勝手とは志村けんがつくった語らしい)

いちばん好きな映画をあえてひとつあげるならロストイントランスレーション。
(世間を騒がせたテラスハウスの事件が起こる前にテラスハウスと絡めてロストイントランスレーションのレビューを書いた。よろしければごらんください。)

ソフィアコッポラは玉石のムラがあるがSomewhereはソフィアコッポラ節(とでもいうべき固有の魅力)がロストイントランスレーションに次いでいる。と思う。

俳優マルコ(スティーブンドーフ)は頼りなく、上っ面なかんじ。にもまして、かれはいつでも心そこにあらずの体。ホテル暮らし。酔って転んで腕を骨折し仕事が停滞したまま日毎パリピに囲まれ、ポールダンスを呼び寄せ、だらだら飲みあかす生活。が、ちっとも楽しくない。

そんな彼に前妻から娘を預かってほしいの依頼。荒廃した徒食の彼と娘のクレオは対照的。無機と有機、静と動、腐臭と生気、闇と光。だが無邪気なクレオは父親の懶惰が気にならない。しばしふたりは利害のない楽しいコンビとなる。

『ソフィア・コッポラ監督の幼少時代の思い出から着想を得た映画である。』
(Somewhereのウィキペディアより)

マルコのモデルは従兄のニコラスケイジだろうか。詳細はわからないが言いたいことはよくわかる。誰しも幼いころに、叔父母か従兄弟か、あまりよく知らない大人と関わったことがある。大人たちは、子供がわからない思惑や屈託をかかえながら生きている。そのときは、たいして感じないが、年を経て振り返ったとき、彼/彼女が言ったことや、やったことを、なんとなく思い出す。そんなことがある。
すなわちクレオ=幼いソフィアコッポラは思ったわけである。かれは売れっ子のスターだった。でもいま思えば、どこか寂しそうだった。と。
それが映画になっている。

一方、生気に満ちた無垢なクレオと過ごしたことにより、マルコは虚無にとらわれる。「俺は空っぽの人間だ」──そう自戒して、なにか新しいことをはじめる。と映画Somewhereは言っている。のである。

じっさいにカジノで遊んだりヘリで移動したりパンケーキにチャイブをかけるような幼少があったはずのエルファニングが完全に素の見ばえだった。