津次郎

映画の感想+ブログ

親愛なる白人様 シーズン1(2017年製作のドラマ)

親愛なる白人様 シーズン1

3.0
平生、だれも一言も漏らさないが、日本人は、すさまじいまでの白人コンプレックスを抱えている。テレビはハーフタレントだらけ。ハーフとはいえ片方はゲルマンかスラヴ、混成だとしてもムラートではなく見た目が白人な人しか好まれない。いっぱんに整形手術とはアジア人らしさを払拭しアングロサクソンにちかづける手術のことだ。

なんならこのサイトの「ユーザーを探す」をクリックすれば、そこに居並ぶ人々は(たぶん)日本人でありながら揃いも揃って白人が出てくる映画を推している。嘘でも冗談でも針小棒大でもない。日本人向けの日本語の映画レビューサイトにおいて、ほとんどの人たちが白人の映画のファン──なわけである。(わたしもです。)にもかかわらず、みな白人好きの習性を露呈しない。にっぽん男子たるもの、揃いも揃って、おれはAngela Whiteなんて知りませんよ──てな涼しい顔をして生きている。

YouTubeでよくある動画だが、日本のおいしい料理・美しい場所・他国にない事やモノ・独自性のある習慣などを紹介して驚嘆する──ってのがある。
で、その紹介はかならず白人の女がやる。そうでない動画は一つもない。きれいな白人の女が、モニタリングの女子高生のように驚嘆することによって、動画に価値が生まれる。
それがどういうことか──というと、日本の事・モノを白人の女に褒めてもらうと、日本人はうれしい──ってことである。ばかっぽい。が、現実にその構造をしている。

オリンピックをつうじてなにを感じましたか。個人的に感じたのは、そこはかとなく顕現してくる日本人のコンプレックス──だった。どの現象・なに事象をもって、そう感じたのか具体的にこれというものがないが、選手や関係者のSNS発信が今までになく恒常化したオリンピックで、感じたのはそこだった。想像に過ぎないが、メディアの方針も機会均等な撮り方をしない。白人の情報を取り上げ伝えるほうがおそらく多い。好かれるビジュアルに顧慮し選っているはずである。

それよりなによりわたしたちが白人の外貌/体躯と日本人のそれを比べる。変だろうか?先人、勝海舟だって福沢諭吉だって永井荷風だってそうやってアングロサクソンとじぶんを比べてきたのではないだろうか。

黒人しか出てこない映画・ドラマというものがある。ブラックスプロイテーションでなくても、たとえばスパイクリーの映画、近年見たのではジョーダンピールのアス。ドラマでも黒人を主役とした、出演者が黒人だらけの枠がある。
せんじつネットフリックスで見た「ネカ美しき復讐の蛇」も黒人だけの映画だった。なぜか。アフリカ映画だったから。黒人種しかいない国の映画は、必然的に黒人しか出てこない。
わたしはそういう映画やドラマを「黒人しか出てこないな」と思いながら見る。ところが白人しか出てこない映画やドラマを見ても「白人しか出てこないな」とは思わない。

ならばわれわれは差別主義者だろうか。──なんか、それもちょっと違うよな。日常生活において、周りに日本人しかいない大多数の日本人は、じぶんが人種差別をするのか、しないのか、その実際的局面に遭ったことがない。のである。

われわれが外国人にまみえるのは、せいぜいコンビニのレジ係が中東か東南アジアのひと──だったときぐらい。わたしはみょうに気をつかって、はっきりモノを言ったりする。
(職場に外国人労働者がおおぜいいる──そんなことと他人種が坩堝の状態で生きていることとは別次元です。)

そんな井の中の蛙な日本人が、人種差別をするのかしないのか、BLMどうのこうの──すさまじいナンセンスだと思いませんか?わたしら白人のいない日本で白人を拝んでる百姓でごぜぇますだよ。ぐろーばるやらなんやら、いろいろ笑わせないで下さいよ。

すなわちこのドラマの日本語タイトル「親愛なる白人様」は、白人コンプレックスにまみれた日本人にとって、正にそのとおりなのだ。しかし、そこに込められている意識は黒人とわたしたちでは天地ほども違いがある──と思いながら見た。という話。