津次郎

映画の感想+ブログ

好ましい癖っぽさ 神様のパズル (2008年製作の映画)

4.0
素人なりに誰某の演技がどうの/こうのと言ったりする。
ところで俳優の演技はうまくなければならないもの──だろうか?

というのも、演技をどうの/こうの言うわりに、演技力に定評のない俳優に魅力を感じることがある。から。
演技がうまいからその俳優が好きか──と言えば、そんなことはない。俳優の演技力は彼/彼女の魅力とイコールにはならない。

たとえばわたしは演技がへたな山崎賢人や福士蒼汰がすきではない。
しかし演技がへたな東出昌大や市原隼人がきらいではない。

俳優は、それぞれの主観のなかで「好ましく感じられる癖っぽさ」で魅力が決まる。と思う。へたでも、わたし/あなたにとって「好ましく感じられる癖っぽさ」があるなら魅力的な俳優──なのだ。

この頃の市原隼人はとても癖っぽかった。なんかワザとみたいに癖っぽかった。この映画のこの配役だから──ではなく、どの映画でもかれはこんな調子だった。たどたどしいセリフ回し。ばかっぽい抑揚。アンチクライマックス。びんぼうゆすりみたいな躍動。すべてが賢さの裏返し──だったと思う。

「物真似される俳優には魅力がある」との定説があるが「物真似されない俳優には魅力がない」とも言える。
小栗旬も藤原竜也も──物真似される俳優ほど、現実に伸し上がっている。山崎賢人や福士蒼汰は物真似されるだろうか。

いっぱんに「絵がうまい」と言うばあい、それは絵が写実的であること意味している。抽象画を「絵がうまい」とは言わない。それは主観に委ねられること──だからだ。

同様に「演技がうまい」と言うばあい。それは演技がリアルであることを意味している。リアルではない独特な演技者を「演技がうまい」とは言わない。それは主観に委ねられる・・・。

独特さ/癖っぽさがなく、ただたんに演技がへたならば、魅力を見つけられない──山崎賢人・福士蒼汰がすきではないことはそのロジックで説明が付く。(個人の意見です。白黒はありません。)

独特の魅力を有している俳優を「演技がへた」とは言わない。そもそも演技力を云々しない。
リアルな演技者ではないが魅力的な演技者がいるなら──俳優の魅力が演技力に依存しているのでなければ(素人が好き勝手にやっているレビューとはいえ)演技がどうの/こうのと言うのは両刀論法だったのかもしれない。とか(今更ながら)思ったという話。

三池崇史監督は玉石混交な商業映画の監督。だと思う。
スキヤキ~(2007)や初恋(2020)など海外媚び映画のせいで、賞レースに出てくるクリエイター型監督みたいなとらえられ方をしているが、そうじゃない。たんなる商業映画の監督。(褒めことばです。)ただし今の時代に年1本以上という多忙監督なので、あっけにとられるほどの石が交じる。

監督作を網羅しているわけではないが、十三人~(2010)や一命(2011)は見事な玉だった。この映画も。本作の市原隼人はほんとに楽しい。輩が相対性理論を概説するのを想像してくれ。ほんとにそれが見聞できる。

くわえて谷村美月もいい。
むかし(今もあるのか知らないが)、少女がじぶんのことを「ボク」と呼ぶ(自称する)二次元ものがあった。それはオタクの願望による言葉遣いであり、じっさいこの世にじぶんのことを「ボク」と言う少女はひとりもいない。(と思う。)

ただしこの映画の谷村美月の「ボク」はしっくりきた。沙羅華(谷村美月)はギークで天才なキャラクター、彼女と軽薄な綿貫(市原隼人)が好コントラストを成し、おふざけとシリアスが混じり合う快作になっている。と、わたしは思う。