津次郎

映画の感想+ブログ

白人様が出てこない シャン・チー/テン・リングスの伝説 (2021年製作の映画)

シャン・チー/テン・リングスの伝説 (吹替版)

4.0
中国映画だったらシムリウとオークワフィナに文句は出ないが、マーベルスタジオの新作映画なので、濃厚な中華度に面食らった──の気配がレビュー全般にあらわれた。

結果、多くのレビューがふたりの容姿にふれていた。シムリウはおっさんとか言われている。んなこと言うならアベンジャーズの面子なんかおっさん・おばさんだらけである。オークワフィナもさんざんな言われようだった。が、おっさんおばさん呼ばわりは、年齢のことじゃない。ふたりのふつうなアジア顔のこと、である。

西洋では日本以上にアジア人差別を警戒している。(たとえば)大谷にベリベリーケアフルと言った解説者が更迭された件も女子バレー選手がやった「つり目」もサッカー選手が日本人を嘲弄した動画もビリーアイリッシュのアジア人蔑視発言も、しっかりと炎上し、非難を浴びている。彼らのアジア人差別に対する警戒感には驚きをおぼえる。

ぎゃくに日本ではアジア人差別をまったく警戒していない。西洋人の日本人差別にたいして「まあ、そういうこともあるんじゃない」みたいな気分・態度をとる。それは日本人が西洋人にたいしてコンプレックスを持っているからだ。(とわたしは思っている。)

最後のジェダイの罵倒祭でKelly Marie Tranをアメリカ世論と一緒になって叩いていなかっただろうか。擁護すべきだった。本作にもローズティコに対する嫌味のようなのがズラリ並んでいるが、どうだろう、シムリウやオークワフィナはむしろわたし/あなたに近い容姿だ。なぜ日本人がアジア的容姿に文句言っちゃうわけ?

言いたいのは、マーベルがアジア人ばかりが出てくる映画をつくったので、それを見た白人大好きな日本人が「おや、この映画に出てくるのはアジア人ばっかしだぞ」というフィルターを介さずには見られなかった──という現象のこと。

日本人はじぶんをふくめた日本人全般を白人よりも下に見ている。(とわたしは思っている。)その潜在意識が、本作のレビューであらわれた。(ような気がした。)

むろん、映画を誰がどう見ようと自由だが、シムリウやオークワフィナがヒーロー/ヒロインをつとめる映画がつくられたのはアメリカ社会に多様性があるから。
多様性がないわたしは映画で多様性を養っています。──という話です。

同監督のショートタームを見たとき、なぜこんな内容の映画を面白くできるんだろうと思った。問題をかかえるティーンのグループホームのマネージャーが主役。起こった出来事と彼女の感懐を時系列的に描いていくだけ。なのに劇的なほどの躍動があった。ガラスの城(2017)やJust Mercy(2019)にも。静的な主題でいけるなら動的なエンタメでなおさらいける。本作は胸躍る冒険活劇だが──父子の愛憎のドラマがあった。

世の物語に出てくる厳しい父親(または母親)。というものがある。
愛憎のなか、かれを乗り越えようと、ずっと頑張ってきたが、気づいてみると、じぶんは別の次元や立脚点にいて、もう親の影響下にいない。
親の管理下・呪縛・傀儡などから解放され親とは違う自分を築く──それは親子の物語が帰着する普遍的なテーゼ、ではなかろうか。その普遍性がシャンチーテンリングスの伝説にも、あった。

が、重くはしない。
物語の起はカフェで駐車場係を揶揄されるところ。結は魂を食う怪物から世界を救った──の顛末を揶揄されるところ。である。
カフェの聞き役の二人も微妙に白人を避けていて、結果としてこの映画には白人がほとんど出てこなかった。

日系他幾つかの血が混じっているデスティンダニエルクレットン監督が映画で言いたかったのも、おそらく(人種の)多様性のことだ。(とわたしは思う。)

カナダの俳優、作家、スタントマン。中国系カナダ人。(シムリウのウィキペディアより)

ニューヨークのクイーンズにて、中国系アメリカ人の父と、韓国系アメリカ人の母の間に生まれた。4歳のときに母を亡くし、父親と祖母によって育てられた。(オークワフィナのウィキペディアより)

シムリウもオークワフィナもアメリカ社会でヒーロー/ヒロインになるために、努力もさることながら、克服しなければならないコンプレックスがあったにちがいない。が、いまやふたりともimdb二桁の人気アイコンである。
すなわち、父親を克服するドラマだが、見終えて俯瞰してみると、アジア人がコンプレックスを克服するドラマに(わたしには)見えた。
その多様性を謳っているところにマーベルの良心を感じた。

韓国社会が(マーベルの新作で)マドンソク演じるギルガメッシュをやたら誇らしげにしている──気持ちがわかった。