津次郎

映画の感想+ブログ

ハワイとは何か 50回目のファーストキス (2018年製作の映画)

50回目のファーストキス

3.5
福田雄一はどちらかといえば放送作家/劇作家だ(と思う)が、映画監督にいたる来歴が、日本の大多数のいわゆる映画監督とはことなるので、日本映画の系譜につらなっていない。個人的に「日本映画の系譜につらなっていない」には価値と意義がある。

大洗~(2009)や明烏(2015)を見てわかったのだが、がんらい面白いコントを書いて舞台で演じていた人が台本書きから映画をつくった──の体。
この出自は、なんとなく美学がありそうな気配だけで、じっさいはなんにもない映画をつくってしまうザ日本映画の系譜とは、ちがう。

「面白いコントを書きたい」=ものをつくる動機がある。──クリエイターならとうぜんのことだと思うかもしれないが、ザ日本映画の監督はじぶんが何をつくりたいのか、つくっているのか、しらない。
したがって面白いコントを書きたいが初動機になっている福田雄一監督が日本の映画界で個性を確立しているのは、しごくとうぜん──だと思う。

(ザ日本映画の監督とはNDJCやぴあFF系や21世紀の女の子など日本映画の若手全般と、きょうびのつまらない日本映画全般を指しています。むろん、この括りには憶測と偏見があります。)

パフェおやじとか吉野家とか楽しくてなんども見ちゃうけれど、いかんせん、みじかいコントや間合いや形態のおかしさを得意とする人なので、映画はどうなのだろう──と思うことはあった。
明烏や女子ーズや銀魂は面白かったが、なんとなく畑のちがうところで面白かった──の感はあった。

が、本作はアダムサンドラーとドリューバリモアの元ねたを忠実にリメイクしていて──というより、そっくりにつくっていて、そのせいで日本映画の臭みが払拭されていた。軽くて、いやみのない映画に仕上がっていた。

とうぜんといえばとうぜんだが2004年の元ねたよりハワイの発色がいい。陽光感があった。金閣寺に光のおびただしい土地であった。というくだりがあるがハワイは光のおびただしい土地だと思う。

昔っから、ハワイ大好きっていう人が一定数いる。

有名人は、じぶんが何が好きなのかを公表できる。
聞かれるから、それが言える──構造がある。
一般庶民は、何が好きなのか聞かれないから、公表できない。
その、そこはかとない鬱憤が、SNSやブログや映画レビューの動機になっている──と思う。
とはいえ、何が好きか聞かれ、エンタメニュース等で報道されるのは人気者や超有名人だけである。

あまり有名でない人のほうが、自らの売り込みを兼ねて自分の好きを押し出してくる。
で、昔っから、ハワイ大好きっていう人が一定数いる。
セレブや芸能人にとても多い。
じっさいセレブや有名人は、年末年始など恒例のごとくハワイへ飛ぶ。
日本人にとってハワイ休暇は、成功者や小金持ちのステイタスシンボル──でもある。

わたしは、ハワイ好きっていうのを見聞きするたび、ハワイが嫌いな人っているんだろうか?と思う。
有名になると小金ができる。
されどすごく有名なわけではないから暇もできる。
そこでしょっちゅうハワイに行く。
日本とハワイのコントラストは刺激的なものだ。
まさに別世界である。
だから、むしょうにハワイの魅力を喧伝したくなる。
それでハワイ大好きを掲げる人が後を絶たない。
その100%が若い女性。例外はない。

万人に好かれているものがある。
ラーメンやディズニーやダイエットなど。
万人に好かれているものを好きと言ってしまうと、安直な人に見えてしまうことがある。
だって、みんなが好きなんだから。
浅はかだし芸がない。
浅はかで芸がなくても、誰もが享受できるものなら、親しみやすさを表明できる。つながることもできる。
ハワイも万人に好かれるものだと思う。
しかしそれを好きと言うのはいいとしても、ハワイに行くには時間とお金が必要になる。
誰もが享受できるものとは言えない。

庶民にとってハワイは金繰りと休暇繰りを何年もやって、やっと行ける楽園であり、その頻度に照らし合わせたら「好き」はないかもしれない。
人生で一二度行ったことしかないのに好きと言ってしまうのが不自然だからだ。「憧れ」のほうが適切である。

そんな庶民にしてみると、ちょくちょく楽園へ行けちゃってる人はトクベツな人にしか見えない。「憧れ」を何度も享受してる人は、親しみやすい人ではなく「憧れ」る人である。→好意的にとらえるならば。
畢竟、ハワイ好きの公言は自らの優位性を誇示してしまうことがある。

巷には、ハワイの魅力を伝える、特集や記事やメディアが山ほどある。本でもサイトでも動画でもいい。発信者を見るとそれは間違いなく若い女性だ。

だが、おっさんでも子供でも老人でも誰でも、あったかくて、食い物がうまくて、きれいなハワイは好きなところにちがいない。だけど大橋巨泉や島田紳助やつんく、あるいはほかの在住の男性がハワイの魅力を喧伝──そんなの見たことも聞いたこともない。
人々は不文律「ハワイは若い女の人が好きと言っていい場所」を持っている。

たしかに本作にも見られる通り、現地の代理店スタッフや、案内人やアトラクション世話係の、若い女性に対する態度と、「おまいら」に対する態度には、天と地ほどの隔たりがある。
だからといって、ちやほやされたことでハワイ好きになってしまうものだろうか。

おそらく女性にとってハワイでの男達の歓待は、開放感と相まって、あながち、まんざらでもないものにちがいない。そのことでハワイ好きになってしまったとしても、罪はないだろう。
だがハワイのことを発信して金をかせぐなら、ハワイ好き──なだけでは弱い。なのでハワイのことを発信しても大丈夫な人物なのか、一定のステイタスバリューをクリアしていなければならない。

構造としてはハワイのいいところ、美味しいお店、穴場スポットの紹介の体をしていながら、一方にはハワイ好きなじぶんアピールのエレメントもある。ならばむしろ水着の写真集と抱き合わせでいいほどであって、このニッチ市場を満たす条件とは、写真集をだすほどじゃないけれど、そこそこ若くきれいで教養ある女性Such As:キャビンアテンダントの転職、ファッション系ユーチューバー、著名ブロガー、リアリティショーの出演経験者、クラブのちいママ、モデルやタレントくずれなどなど。ではなかろうか。

彼女たちには、まず、みずからのステイタスバリューがハワイ好きを公言することに適合しているとの確信がある。だからこそハワイ好きを謳っているのだが、とうぜんそこは激戦地である。だって誰もがハワイが好きなんだから。というわけで抜け出た人は、わりと有名か、もしくは金を持っているかのどちらかになるが、もちろん誰が伝えるハワイもまったく同じである。

ところが、新型コロナウィルス禍下にあって、ハワイが遠のいた。ニッチな市場から急速に冷える。ハワイの魅力をつたえる若い女性もついぞ見なくなった。
禍下だからこそ、よけい本作のハワイの光がまぶしく見えた──のだろう。