津次郎

映画の感想+ブログ

妙味 偶然と想像 (2021年製作の映画)

偶然と想像 [Blu-ray]

3.5
日本映画に「海外で大絶賛!」というキャッチコピーがあっても、具体性やプライズの内訳がないばあい、それはフォックスやワーナーやUIP(など)の海外映画部のアジア担当のバイヤーさんがとっても気に入ってくれた──ていどの話だと思われます。(憶測です。)

わが国で「海外で大絶賛!」を常用したのは、言うまでもなく日本をだいひょうする映画監督の園子温監督です。

ほんとは「担当さんがすごく気に入ってくれた!」ですが、それだとキャッチフレーズとして弱いため、かたっぱしから「海外で大絶賛!」と謳ってしまった、わけです。

その結果、まるで園子温がほんとに海外で大絶賛されているような錯覚を観衆に植え付けてしまった──のでした。

さいわい、このほど公開された海外進出第一弾のPrisoners of the Ghostland(2021)(の大コケ)によって「海外で大絶賛!」がマスコミの盛り報道だったことを自ら証明してくれましたが、今まで、絶賛されていないものを絶賛されていると持ち上げられ、ましてや、日本をだいひょうする映画監督に祭り上げられて、園監督もさぞかし迷惑していたことでしょう。

濱口竜介監督のドライブマイカーは海外で大絶賛されました。多数のプライズが根拠です。カンヌで脚本賞など4冠。アジア太平洋映画賞、シカゴiff、デンバーiff、ハリウッド批評家協会賞、ニューヨーク批評家協会賞。オスカーのレースにも入っていて、カイエデュシネマやインディーワイアも推しています。つまりほんとに海外で大絶賛されました。
ですが「ドライブマイカー!海外で大絶賛!」という謳いをあまり見ませんでした。

(憶測に過ぎませんが)濱口監督は映画をつくることも、映画を見てもらうことも、日本マーケットに限界を感じているのではないか──と思いました。

(TV出身者の映画・映画監督を除いて、)日本映画界は閉ざされた昭和ポルノ作家の宅老所です。古参がそれなら新進もみな裸の王様です。むしろどうやってロマンポルノを知り得たかわからない若い世代が先達とおなじロマンポルノをつくるのです。(such as:21世紀の女の子)。そんな古井戸で、世界を知らない蛙たちと競い合ったとて、なんのいみがあるでしょう。

寝ても覚めてもやドライブマイカーや本作も海外のマーケットから逆輸入的なマーケティングが為されたと感じました。海外のまともなアワードを獲ってしまえば、日本の権威的批評家が何と言おうと、疎外される心配がありません。

50年代を黄金期として70年。それだけ長い月日ならば、いくらなんでも日本映画から日本映画的でない人が出てきてもふしぎはありません。濱口竜介監督のウィキペディアに『ジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』から大きな影響を受けたことを公言している。』とありました。日本の映画監督にそんな人はいなかったと思います。

──

三篇のオムニバス映画。
話が面白い。画は日常だが、なんとなく非日常なおちがつく。
それも明解なおちではなく、倫理でも教訓でも不条理でもない、なんかふわりとした所へおちる。

寝ても覚めてもを見たとき、棒読みと棒演技が、東出昌大と唐田えりかの特性だと思っていた。ところがある。

この映画の渋川清彦を見て。ちがう。と思った。
渋川清彦が演じる教授は棒読みなだけでなく能面だった。
役者の演技が演技指導によっている。ことがこの映画でわかった。

となると演技がへたと世評のある東出昌大は、もしかしたら演技がうまいのかもしれない。わたしも誰かの演技について、うまいとかへたとか評定してしまうことがあるが──そもそもが、いいかげんな主観・見識にもとづいている、とは思っている。

たとえば木村拓哉は俳優キャリアのさいしょから今にいたるまで演技を云々される人だが、ドラマの主演として厖大なキャリアがある、だけでなく、演じてきたすべての役に「型破りなキャラクター」という共通点がある。

これは謂わば三船敏郎のような人物固有のダイナミズムで、したがって、木村拓哉がへた、という言い分は、三船敏郎がへた──の位相とすごく似ている。

三船敏郎が一貫して演じたのは「豪快なキャラクター」だった。よしんば三船敏郎がへただった──としてもキャラクターを確立している以上、へたを補ってあまりあるダイナミズムがあった。といえる。じっさいにあった。

木村拓哉も、そういう種類=リアルな演技ではなくキャラクタライズが売りの俳優だと言える。三船敏郎が「豪快なキャラクター」を身上としていたなら、木村拓哉は「型破りなキャラクター」を身上としている。じっさい、どの映画/ドラマでも間違いなくその配役が為されていた。
そして役者がキャラクターそのものに魅力を持っているならば、演技がへたかうまいかで、役者の価値ははかれない。という話。である。

ところで、能面でやってくれ──は、わりとよく知られた小津安二郎の演技指導方法だと思う。俳優は、小津映画の佐分利信みたいに、あるいは本作の渋川清彦のように、演技指導によって、能面や棒になる。

ところが強いキャラクターをもった俳優は、演技指導どうりの役作りにおさまらない。それ以前に、演技指導によって映画をつくりあげたい監督は強いキャラクターを持った俳優を使わない。たとえば濱口監督は木村拓哉に能面でやってくれとは言わない。に違いないし、もし使うとすれば、能面でやらなくていい役回りを充てる。と思われる。

ただし、木村拓哉が能面で演じたらぜったいに面白い。で、言いたいのは──渋川清彦を教授にし、能面にして棒にしたのがとてもフレッシュだった、ということ。

わたしはかつてゴールデンスランバーのレビューにこう書いた。
『渋川清彦は、この映画やフィッシュストーリーで見せた演技でブレイクした、はずである。その持ち味が理解されていない──と思う。キャスティングされると、まず間違いなく、だらしない人間、ダメ男、チンピラとして使われる。いったいこの紋切り型の発想はなんなのか、というくらい、一本調子のキャスティングを被る(こうむる)。クレジットされていると、ほぼチンピラ役なのである。
この国の演出家は何を見ているんだろう。(後略)』

ほとんどの映画で渋川清彦はかならずダメ男の役になるのだが、その発想に日本映画の限界があった。と、わたしは思っている。中村義洋監督以外だれひとりそれを解っていなかったが、濱口監督はそのあたりを解っている──と感じられた。
三篇を通しても渋川清彦のキャラクターがいちばん強烈だった。

ただし映画はなんとなく庶民的ではない。

東京は映画の発展度からするとド田舎だが、そこに巣くっているお百姓*の自称評論家が、偶然と想像のような、会話の妙味やロメールやアレンやゴダールやサンス風の「洗練されたすれ違いの零れ話」の映画を絶賛したばあい、かならず権威がまとわりつく。言いたいことが伝わっているか解らないし、映画に罪はないが、そういう権威がまとわりつきやすい映画だとは思った。
(*わたしは田舎の百姓なので百姓が差別用語には成り得ません。)