津次郎

映画の感想+ブログ

カラフルですね Diner ダイナー (2019年製作の映画)

Diner ダイナー

1.0
写真のことは知りませんが、監督は写真家を兼業しています。スタジオで被写体を据えて撮る写真家で、ストリートや自然や報道などの写真は見たことがありません。すべてが人物や花などをコラージュした写真です。極彩色に盛りますが、独自性はなく、この人が撮ったことを視認しうるシンギュラリティ(技術的または芸術的特異点)がない、謂わば商業写真です。おそらくほとんどが後処理に重点されると思われ、写真家というより画像編集者と言ったほうが適切かもしれません。

映画監督としての特長も──それを特長と言っていいならば、極彩色に盛ることです。似非な「過激さ」もあります。

原作は様様なころし屋とグルメを融合させ、その過激さを描いている──と思われます。原作も漫画も知りませんが、小説や漫画ならば、中二な決めゼリフが散りばめられたこの話は悪くないと思います。でも映画となると、過激や特異を標榜したはずのキャラクターが、日本映画によく出てくる人に見えてしまっています。

いわゆる過激な人物の表現が、定型。紋切り。一本調子。ワンパターン。です。過激な人物とは=過激なことをしたり、大声であばれる輩──という方程式しか見えません。かれらは「過激」をひょうげんしているはずです。ダイナーは過激なことを描いている映画──のはずです。マスコミも阿付してダイナーが過激だと喧伝していました。
いかがでしょう。

この過激さは園子温他日本の映画人たちと丸かぶりの感性です。園子温映画において、風呂場で屍体をバラバラにするとか、手をつないで列車に飛び込むとか、真っ赤なスパゲッティをわしづかみで食べるとか、──それらは一般に「過激である」と定義されます。が、じっさいには過激なシーンが出てくる映画──なだけであって、過激が有機的なモチーフたり得ていません。
過激なキャラクターとは過激なことをする人ではありません。過激な映画とは、過激なシーンを羅列した映画ではありません。文脈や基本的な映画技法に深化がなければ過激をひょうげんすることができません。

そもそも「過激」作家の目的は過激を映像化することではなく、過激なシーンを羅列して承認欲求を満たすこと──にあります。
ようするに「こんな過激を描けてしまう私/俺ってスゴくなぁい?」とドヤりたいから映画監督に就いているわけ。
とうぜんかれらの第一義は映画づくりではなく、繰り返して自己顕示欲が自得される環境下にじぶんが置かれること──であり、ほんとはつくりたいものなど、なんにもないわけです。(憶測です。)

過激とはなんなのか。

過激とは、例えば──
(例えばはあくまで例えばであり、それが、もっとも好適な例えだとは思っていません。一般庶民が例えるばあい、映画の厖大な歴史をひもといて、例えを探すわけではなく、じぶんが見知った、わずかな映画視聴履歴をもって、例えるのであり、研究者の網羅性はありません。ただし、例えが通じやすいように、ポピュラリティのある映画から引用しています。)

例えばエンドゲームのネビュラってぜったい喜楽も高揚もしないキャラクターですよね。彼女に無類の個性を感じました。エンドゲームの冒頭覚えてますか。真顔でさびしげに「楽しかった」っていう人です。温かみを失った無感情なネビュラは「見たこともないキャラクター」でした。ましてエンドゲームは大衆に向けられた映画。ネビュラはまさに「過激なキャラクター」だったと思います。

鬼滅の刃について一切知りません。そんなわたしが鬼滅の刃劇場版を見たとき、キャラクターの類型性を感じました。で、レビューにこう書きました。

『キャラクタイズは陳套で、市松は真面目で主格であり、橙は泣き虫でヘタれであり、猪はそのまま猪突猛進でした。煉獄さんはテンプレートみたいな「豪快」キャラです。「うまい」って何回も言います。』

日本の映画/ドラマにおいて、登場人物が特異なキャラクターをもっていることは、ほとんどありません。「見たこともないキャラクター」なんてまずいません。
類型やパターンを楽しむのが日本らしさ──と解することもできますが、もしかしたら想像力の欠如がキャラクター平板化の要因かもしれません。

あばれないネビュラが過激に見えるのは、日本映画が特異性を考慮しないか、特異を生む能力に欠けているからです。
日本映画には、そういうことを感じさせてしまう映画が多すぎます。似非の「過激」を過激とする、まがいものが幅をきかせすぎです。なぜ持っていないひとが持ち上げられてしまうのでしょう。意味がわかりません。

日本映画を語っているとき、しぜんと風呂敷が拡がってしまう(全体的な話になってしまう)のは、腹が立っているからです。
じぶんは概してどんなときもおだやかですが、唯一日本映画を見たとき、腹が立つことがあります。
とりわけ親の七光りとそこから繋がるマスコミの力に庇護されている人物が、日本をだいひょうする映画監督に持ち上げられ、業界内の宥和に支えられ、したたかな逆境に遭いもせず、えんえんと愚作を繰り出すことができる理不尽に接したとき──腹が立ちます。

ただし、一方で日本映画を見ることは、わたし/あなたの大人度をはかる試練とみることもできます。七光りも才能のひとつですし、いかなる作品にたいしても寛容をもって受け容れるのが、大人の対応というものです。大人になれば、突き上げてくる怒りを静めながらレビューを書くことも可能になるでしょう。

が、ころすかころされるか、いまわの悶絶と絶叫、流血と傷口とどろどろとした修羅の気配というものは、日本映画が耳目にタコができるほどつくってきた映像です。いつものふつうの日本映画です。

冒頭、主人公オオバカナコの後ろで道行く雑踏が一瞬止まって屈折する前衛舞踏みたいな画がありますが、その拙い心象ひょうげんで早くも(もうれつに)嫌になりました。ころし屋たちの乱痴気騒ぎを描きながら、ときどき祖母との情景がでてきてエモーショナルに落とそうとする付け焼き刃な感傷にも、ほとほと疲れました。とうてい感動へもっていける話じゃないのに、感動へもっていこうとしていて、ほんとに心から困憊しました。

また(個人的な見解ですが)主演女優に魅力がありません。他の出演作でも魅力を感じませんでしたが、この人は概して慮外の高評価を浴びている女優さんです。ウィキペディアに、

『2019年に公開された『惡の華』と『地獄少女』での玉城の存在感・芝居は映画ファンの間で反響を呼び、とりわけ『映画秘宝』の論客たちの間では町山智浩は『惡の華』を絶賛し、玉城を「新たなスターの誕生」と評し、田野辺尚人は必殺シリーズに影響を受けた『地獄少女』における玉城の存在感を「『必殺からくり人』における山田五十鈴を彷彿させる」と評した。』

──とありました。人様がどう見ようと勝手ですが、こんな見当外れってありますか。権威的な人たちが素人同然の女優を絶賛しているばあい何らかの企図や忖度があるはずです。(──若い女(女優)に「わたしのえんぎを褒めてくれた評論家のせんせー」ってポジションされたいだけの発言やめろ。──って話。)

(だいたい「必殺からくり人における山田五十鈴を彷彿させる」──ってなに?世間でこの例えになるほどそうかと納得する読者がどれだけいると思いますか?こんな大時代な独善を吐いて金もらって評論家面してるってスゴいよね。)

(私見ながら)この映画に見る価値はありませんが、見るならキッチンで調理しながら。もちろん1.5倍速で。とちゅう2時間ほどよそ見しても印象も感想も変わりません。0点。