津次郎

映画の感想+ブログ

コンテンツの戦略性 マクベス (2021年製作の映画)

マクベス

3.6
シェイクスピアをしりません。しっているのは(ハックルベリーにでてくる)王様と公爵のやりとりていど。マクベスもしりません。世の中ではシェイクスピアを元ネタにしたものは周知の話のような体になっていますが、大概の人がそれをしっている──シェイクスピアをたしなんだことがある──という想定には懐疑的です。

マクベスは謀略で王も臣下もみなごろしにしてのし上がります。──まがりなりにも現代で残酷な映画をたくさんしっているはずのわたしにさえ、すさまじい残酷さのある話でした。王位にのしあがったものの狂気にさいなまれ因果応報のような末路をとげます。

映画は白黒で4:3のアスペクト比に区切ってあります。舞台をみたことがありませんが映画は舞台様式になっています。シーンごとにシンプルな背景が切り替わり人物が前に進み出て台詞をかたります。

その台詞は現代口語ではなく、原著にゆえんするもったいぶった枝葉を、たくさん付けています。おおロミオあなたはなぜロミオなの──みたいな、じぶんの心情を台詞で語るわけです。しょうじきなところわたしにそれらはかなり抵抗がありました。

この映画がどのていど原著と同じなのか/違うのかわかりませんが、もったいぶった台詞から古典に忠実な印象をうけました。
シェイクスピアを映画に翻案したばあい、その解釈によって「新境地を切り開いた」と喧伝されるばあいがありますが、シェイクスピアをしらないと、その「新境地」をうけとるリテラシーがないことになります。

ハックルベリーでは王様と公爵が詐欺まがいの興行で儲けるため筏の上で舞台のれんしゅうをするのですが、ふたりの解釈しているシェイクスピアはたわごともいいところでした。なにしろおっさんふたりでロミオとジュリエットもやるし、ダンシネーンの剣劇もやるしで滅茶苦茶でした。が、王様や公爵の解釈しているシェイクスピアが、庶民のうけとるシェイクスピアではなかろうかと思います。わたしも露台に佇んだジュリエットがおおロミオ──と言うところしかしらないわけですから。

素人の日常ではシェイクスピアを語り合うことは稀ゆえシェイクスピアと出てきたらしっているような顔をしておいてもだいじょうぶ──かもしれません。

兄弟監督の一人が欠けていることに気づきました。なにがあったのでしょう。コーエン兄弟でいちばんお気にはトゥルーグリッドですが、近年はエンタメ色を排して枯淡な作風になってきました。ストイックすぎますが趣味がいいです。黒人のマクベスが特異点になっていると思われますが、デンゼルなので違和感はありませんでした。

Alex Hassellという俳優が演じている側近がいますが本作はかれがキーマンになっているような気がしました。ダンカン王にもマクベス王にも巧く立ち回る役回りでモノクロに濃い顔が映えました。

おそらくもっとも衝撃的なのはコンテンツビジネスにたいするAppleTVの戦略性です。VODにオリジナル映画をぶっこむとき、どうすると思いますか。Netflix、Disney+、HBOMax、Amazon──等々、VOD群雄割拠の今日、ブロックバスターを投入するばかりが脳では他と差別化がはかれません。そこで映画通や批評家にもアピールできるアートハウスを置くわけです。現代、すぐれたオリジナリティに勝る武器はないわけで、それをひしひしと感じる映画でした。