津次郎

映画の感想+ブログ

もうすぐ死ぬだけど佳作 ラブ・ストーリーを君に (1988年製作の映画)

ラブ・ストーリーを君に

3.6
この映画は佳作とされている。
なぜそうなのか説明したい。(しろうとの見解に過ぎません。)

『松田優作主演による一連のアクション作品の脚本で知られる丸山は、ニューシネマが好きで、最初に薄汚く屈折した青年と、はねっかえりな少女に設定を変えて脚本第一稿を提出したが黒澤につき返された。黒澤は本作を毒を持った人間が一人も出ない映画を基本に考えていた。』
(ウィキペディ「ラブ・ストーリーを君に」より)

日本の映画人は(なぜか)観衆が、悪い奴、いびつなもの、性的な様態、エキセントリックや残酷を見たいだろう──と考えている。ヤクザものとか好きだろう──と思い込んでいる。これは日本映画界が有する伝統的な見当違いで、この国の映画界には(なぜか)そういう人しか集まらない。

本作も「薄汚く屈折した青年と、はねっかえりな少女に設定」された、ごく普通のザ日本映画になるはずだった。が「毒を持った人間が一人も出ない映画」を基本に考えていたプロデューサーの意向によって、愚直なまでの寓話になった。のだった。

拍子抜けな説明とお感じになるかもしれないが、この映画が傑出してしまった理由は、偶さか、日本映画界がいつもはつくらない日本映画をつくったから──に尽きる。

つまり、日本映画界の映画人は、観衆をなっとくさせるためには、変化球や、場合によっては消える魔球が、ひつようだと考えて、映画をつくっている。

それが誤解かつ、迷走の元凶であって、そもそも変化球や消える魔球を投げられる技量なんてないんだから、直球を投げてこいよ、という話なわけ。

ようするに「ラブ・ストーリーを君に」は日本映画界が、ほとんど偶然投げた直球だった。

映画は気恥ずかしいほどの直球=純情一直線でつくられている。後藤久美子も仲村トオルも棒演技で外国人向け日本語教材みたいな会話をする。14歳の子が別れ際に「ご機嫌よう」なんて言う。授業中あてても寝ている生徒に「こいつは大物だ寝かしとこう」なんて言う。修身教科書のようなやりとり。古い日本人の気配。それらは見ていて気分が良かった。

14歳の中学生と20代の青年。現代社会(2022)の準則(コンプライアンス)にのっとるばあい、この関係は、まず絶対にまっとうな純愛話にならない。中坊と家庭教師/実習生なんて、きょうびエロにしか使えない。

したがって、この映画は旧弊な日本映画界にあって、今、なおさら新しくなってしまっている。14歳の中学生と20代の青年の疑似恋愛話を、セクシー女優(a.k.a:AV女優)を使わずに描いている──どころか、文部省(現:文科省)選定にさえしている、から。
いつごろからか解らないが、こんにちの社会では、成人した男は誰もがプレデター(性的な搾取者)と見なされるようになっている。(この映画のようなことは、)あり得ないと一蹴されるだろう。

そもそも上條(仲村トオル)が由美(後藤久美子)の母親に頼まれたのは、真似事でもいいから、由美と恋愛をしてやってくれ──である。なぜか。由美は白血病であと半年ほどしか生きられない。その僅かな間を病床でふせっているより、キラキラと充実した思い出をつくって旅立ってほしいから。すなわちクオリティオブライフのためだ。

映画はさいしょからクオリティオブライフについて医師役の露口茂から時間をかけて語られる。
『原作はフランスの小説家・脚本家のディディエ・ドゥコワン(フランス語版)の1969年の小説『眠れローランス Laurence 』』
(ウィキペディ「ラブ・ストーリーを君に」より)

余命いくばくもない少女の話だが、生者たちの葛藤を同比率で描き込み、むしろホスピスの映画といえる。そこには異国の人が見てもわかる普遍性があった。

畢竟もうすぐ死ぬで釣ろうとした──というより、たんじゅんに映画的題材である難病ものの映画化で、変な媚びは感じられない。北川景子のDear Friends(2007)もそうだが、この主題は強引に泣かそうとする演出がなければ、いい映画になる。

たとえば、おなじ「もうすぐ死ぬ」でも湯を沸かすほどの熱い愛は、かわいそうをひとりに集約せず、出演者全員に不遇の免罪符を背負わせ「泣け」と迫ってくる映画だった。じぶんはしつこいほど湯を沸かす~をけなしているが、あの貫一とお宮の臭すぎるかわいそうワンダーランドが高評価を得るのはどう考えてもおかしい。だいたいにおいて(以下割愛)。

後藤久美子のデビュー作でとうぜん寅さんで泉ちゃんやるより前だった。これ見てからお帰り寅さん(2019)見るとタイムトラベルできます。