津次郎

映画の感想+ブログ

仮想体験 レディ・プレイヤー1 (2018年製作の映画)

レディ・プレイヤー1(吹替版)

4.0
カンヌやアカデミー外国語映画賞のような大きな受賞作品には、普段そういう映画を見ないような裾のコンシューマーが群がる。

万引き家族やドライブマイカーなどに、一定の酷評があつまるのは、そういうわけ。

最高の映画としてアベンジャーズやフリーガイを推しているタイプの人が万引き家族やドライブマイカーを見たって、アベンジャーズやフリーガイのような満足感は得られない。

あたりまえである。

もちろんアベンジャーズやフリーガイはすばらしい映画だが、そういうブロックバスターとアートハウスを比較するのは、ステーキとお茶漬けはどっちがおいしいか決めてください──というようなもんである。

ここのところ連日出ていたカンヌ映画祭(2022/第75回)関連のニュースに、トップガンマーヴェリックに比べたら是枝作品はつまらない──というコメントを見かけた。

日本映画をけなすことが多いわたしでも、ハリウッドのアクション映画とアート映画を比較して、どっちがおもしろいかの争議にはくみできない。

でも、映画をどう見ようと観衆各々の勝手である。

とうぜんトップガンマーヴェリックとベイビーブローカーを比べたいなら比べていい。

アメリカではブロックバスターとアートハウスの境界があいまいになってきている。たとえばエターナルズを監督したのはノマドランドのクロエジャオだ。

おそらくアメリカではアートハウスだからつまんないという言い訳はできない。民衆が是枝作品とトップガンを比較するのは想定内とみるべきだろう。

とはいえ万引き家族やドライブマイカーがマーベルスタジオやDCコミック映画よりつまんないというリテラシーには、違和感をおぼえる。

レディプレイヤー1が公開されたとき、絶賛されたのと同時に、この面白さに比べて日本映画はなんとショボいことだろう──という嘆きのコメントをけっこう見かけた。

わたしはそのコメントに賛同するが、やっぱりステーキとお茶漬けだとは思った。

日本映画のクオリティが総じて低いのは、いまや国民の誰もが知っている。

しかしだからといって日本がレディプレイヤー1を目指したら、んなもん100パー無理なわけである。

アメリカの大資本および体系的な技術習得のプロセスと日本の家内制手工業な映画づくりを比較しても、ぜんぜんかなわない。

また、日本映画界には、ひとつの大きな誤解がある。
日本では監督に「天才」とか「鬼才」の呼称をもちいることが(とても)よくある。
が、映画づくりには天才も鬼才もいらない。
しっかり学んだ技術者がいればいい。

スピルバーグは天才だっただろうか。ちがう。CA州立大で映画を専攻しユニバーサルスタジオに居候して職人技術を学んだ映画オタだった。

畢竟、日本映画界にたいする観衆の注文は極めて単純なものだ。
天才も鬼才も要りませんので技術学んで下さい、の一言に尽きる。

──

カンヌ映画祭で是枝裕和監督の韓国映画「Broker」(邦:ベイビー・ブローカー)が上映され12分間の拍手をあびたとの報道があった。結果としてBrokerはソンガンホが主演男優賞を受賞し、作品はエキュメニカル審査員賞にかがやいた。

その前後の会見や取材で是枝監督が語った発言が興味深かった。

『(中略)その上で「ただ、日本の中で訓練を積んでいないのは役者だけではなくて、監督もそうだから。僕も、やっぱり専門的な演出を学んで映画を撮っているわけではないので。それも、また海外と比べると、すごく少数派なんですよね。やっぱり海外の監督たちは、きちんと技術を学んで監督になっているから」と、日本は俳優だけでなく、監督も演出をはじめとした製作における専門的な技術の訓練が足りない面があると指摘。「そこも、やっぱり自分では考えなければいけない。役者の技量の問題ではなくて、監督がきちんと役者と一緒に映画を作れる、コミュニケーション出来る言葉だったり技術だったりを、僕自身もそうですけど、身に付ける必要があるなと改めて思いますけど」と持論を展開した。』
(日刊スポーツの記事より)

さらに──
「(中略)でも、それは監督だけでは出来ないので、日本の映画界全体が危機感を持つべきだと僕は思いますし、多分もう何年かこのままいくと手遅れになるなと個人的には思っていますので」
とも述べた。

発言のポイントは『僕も、やっぱり専門的な演出を学んで映画を撮っているわけではないので。』や『やっぱり海外の監督たちは、きちんと技術を学んで監督になっているから』というところ。

概して日本の映画監督は独善/自己流で映画をつくり、それをマーケティング担当者が「天才あらわる」と喧伝する。
日本映画界では「天才・鬼才」がセールストークとして使われているのだが、当の本人は自分をほんとに天才や鬼才だと信じているため、技能を身につけようとしない。結果、じっさいに競争力をもった人物は一人もいない。

にもかかわらず日本ではなおもその方法/因習で映画をつくろうとしている。

すなわち「きちんと技術を学」ばず①独占と自己流で映画をつくり②マーケティングが「天才」とはやしたて③数年後あとかたもなく消える。この③ステップが日本映画界の悪循環になっている。

だからこそ是枝監督は『多分もう何年かこのままいくと手遅れになるな』と述べたのだが、現役の映画人として、これほど自省・自戒な発言を聞いたのははじめてだった。と思う。

民衆が「日本映画はダメだ」と思っているのに反して、日本映画界は、あんがいこたえてない。
かれら(日本の映画監督)は得体の知れない気どりを持ち、庶民を顧客としながら、庶民をないがしろにしている。それでいながら称揚にあずかろうとする強い承認欲がある。──日本の映画監督の定番のポーズではなかろうか。

だいたい日本で謙虚な映画監督を見たことがありますか?・・・是枝監督のように、危機感や自省をもっている人はきわめて少ないだろう。

いま日本映画界は映画そのものの話題はなく、セク/パワハラで監督自らがエンタメを提供する業界と化している。

クリエイターに是枝監督のような自分を省みる人物がほとんど居ないならば、嫌われるのも当たり前だろう。

結果、すぐれた外国映画に接するたびに、そんな日本映画界との格差を憂えるのは、とうぜんだと思う。

じぶんもレディプレイヤー1を見たときは圧倒された。予算とか視覚効果とか、それ以上に観衆を徹底して楽しませようという意欲と技術的な特異性がまるでちがう。感動すると同時に、ほんとに日本映画を情けなく思わせる映画だった。

ステーキとお茶漬けは比較できない別物だが、根底にある技術、それを磨いているのか・怠っているのかは食ってみりゃわかる。

(解りにくい話だったかもしれませんが、是枝監督のように自分を省みることのできる人でないと日本映画界はもう無理だろうなという話でした)

レディプレイヤー1が大ウケした最大要因は良き仲間への憧れだったと思う。
仮想空間で協力プレイの相棒をみつけても一過性のものでしかない。また(じぶんが知る限り)ゲーム内はもっと殺伐としている。ましてや現実でわたし/あなたを助けてくれる仲間がいるだろうか。
ウェイドがパーシヴァルであるように、叶えられなかったことをタイシェリダンが叶えてくれる「体験する」映画だった。

ひたすら圧倒されたとき、なんどか使ってきた常套句だが「よくもまあこんな(映画つくる)国と戦争やったもんだ」である。