津次郎

映画の感想+ブログ

命がけの登校 世界の果ての通学路 (2012年製作の映画)

4.0
せかい各地の僻地の子供が学校へ行く話。
4地域4組の子供らが出てくる。

「学校へ行く」と言ってもその道のりは遠く険しい。

ケニアの兄妹は象の群れや危険を避けながらサバンナを15キロ歩く。
モロッコの女の子三人は22キロ。山道を歩き途中の村で行きずりの車を拾う。
アルゼンチンの兄妹は乗馬で18キロ。茫漠とした高地。途中Gauchito Gil※の祠に道中安全を祈願。
インドの三兄弟は脚のわるい兄の車椅子を牽いて4キロ。車椅子と言っても錆びたボロボロの車輪にデッキチェアを載せただけ。

この映画のもっとも重要なポイントは、子供も親たちも、学校へ行って勉強することが、なによりも大切だと考えていること。

子供が何十キロもの道程を、なんとしてでも学校へ行くのは、親が教育の大切さを伝え受け継いできたから──に他ならない。

もし貧困や圧制や暗愚によって「おまえは字なんか習わんでええ、ここで親の手伝いしとったらええ」──になっていたら話が成立しない。

どんな境遇にあろうとも、学問がなによりも大切だと信じているのなら、その社会は明るい。人間が教育を最重要とするかぎり、文明はむしろ人間のあとからついてくる。からだ。

よって質素な生活をし、命がけで学校へ通うドキュメンタリーにもかかわらず、出てくる子供らに、悲愴はまったくない。むしろ楽しそうだ。

ところでこのドキュメンタリーの啓発を順当に落とし込むなら(とうぜん)わたしたちは恵まれていることに感謝しなければなりませんね──ということになる。

それに異論はまったくない。まちがいなくわたしたちは恵まれていることに感謝しなければならない。

が、豊かな社会に長くいると、本質的に幸福なのはどっちだろう──みたいなことを、考えてしまう。

じぶんは、電気や文明器のない場所では、悲鳴をあげることだろう。とはいえ、純粋なものが総て失われた「豊かな社会」に喪失感はある。

日本の学校は地の利で、かれらより何倍も実用的だが、その実、おそらく何倍も過酷で凶悪な場所になっている、のではなかろうか。
(なんて社会派じゃないから柄にもないのだが)

※Gauchito Gilはアルゼンチンの民俗信仰。道祖神みたいなもの。(多分)