津次郎

映画の感想+ブログ

ポップが演歌になった感じ 六本木クラス (2022年製作のドラマ)


2.5

六本木はお金持ちと水商売と反グレがいて、外国人が遊興するだけの生活臭のない街。
そこに生活圏をもっているのはひとにぎりの金持ちだけ、庶民にとっては、ただの盛り場にすぎない。
結局そこで生きているダイナミズムがないと形骸化はまぬがれない──というか、六本木クラスというリメイクタイトルを聞いた時点で、皮相(うわべ)をすくったものをつくる気配はあった。

がんらい韓国エンタメは日本を模倣することで伸してきたところがある。ゆえに日本産の韓国リメイクorパクリに対して、わたしたちは完全な上から目線だった。

しかし顧みると冬のソナタの時代/時点ですでに抜かれていたのかもしれない。
いつのまにか逆転し韓国ドラマ/映画のクオリティは超えられない高さへのぼってしまい、VODの普及がそれを白日の下に晒してしまった。

となると民心も韓国エンタメに寄せてくる。
梨泰院クラスのリメイクとの告知をきいただけで反撥的気分がもたげてくる。
すくなくとも梨泰院クラスはそういうコアなファンをかかえたカルトドラマでもあった。

日本でのリメイクは、見る前から韓ドラファンの不寛容を乗り越えなければならない時代になってしまったわけである。

エンタメの効用が、政治的だと思うのは、このような状況を俯瞰したときだ。
たとえば韓国関連ニュースに群がるヤフコメ民は8、9割がコンサバかつ反韓なひとたちばかり。強弱いろいろの桜井誠が集っていると言ってもあながち言い過ぎではない。ただし、それはネトウヨというような安易な括りで分別されてしまう人たちではなく、概して韓国の不見識や理不尽な要求に対して不満を持っているごく一般的な日本人だと思われる。

ところが日毎ネットフリックスの上位にならんでいるのは韓ドラとアニメだけ。
ならば韓ドラを見ている庶民は“韓国”を苦々しく感じながら韓ドラを見ているのかといえば──そんなことはあり得ない。
韓ドラを好きな日本人は韓国/韓国人に親近を寄せている──となればエンタメによって大衆をコントロールしているかぎり韓国は日本に介入できる、ことになる。
エンタメ戦略はじゅうぶんに政治的なのだ。

この、エンタメ日韓対比は松井珠理奈の凋落と、宮脇咲良の勃興に重なる。
ふたりの興亡は、素人の成長行程を見せる日本式アイドルの方法論が終焉し、韓国のプラットフォームが一般化したことの証左になってしまっている。

感覚的に言うと日本式は「頑張れば伝わる」という感じ。
韓国ドラマ/映画/アイドルの台頭は「頑張れば伝わる」という依頼心を捨て去り、映画学校やアイドル学校で徹底的に技術を訓練した者たちの成果だろう。

おそらく冬のソナタの時代すでにエンタメ大国構想があったのだと思う。謂わば「スターや良質な映画/ドラマをつくって輸出し外国人を骨抜きにする」という構想が。

けっきょく梨泰院クラスの真価はおしゃれな皮相より、仇敵との確執、仲間の絆、飲食店運営をベースに個性豊かなキャラクターが絡み合うドラマにある。
人と物語に充溢と魅力があることを梨泰院クラスを見た人なら誰でも知っている。

たとえば是枝裕和監督は、ベイビーブローカー公開前後のプロモーションで何度か韓ドラにはまっていたことを述懐しているが、配役への影響はIUだけでなく、梨泰院クラスの銀髪、イ・ジュヨンにも言えるだろう。韓国は大人が楽しめるドラマをつくっている──という話であり、とりわけ梨泰院クラスの最大の見せどころはくっきり立ったキャラクター群像だった。

そういう思い入れの深いカルトドラマのゆえに、六本木と聞いただけで興醒めしたひとは少なくなかったと思う。
つまり「梨泰院はおしゃれな場所であり、日本で言うならたとえば六本木」という理屈はわかるけれど、梨泰院クラスはおしゃれではあるけれどそれに甘んじたドラマじゃなかったので、六本木を冠した日本製ドラマには不安しかない。という感じ──なのだった。

ただ、それらは総て皮肉めいた雑感にすぎない。人物でも話でも興味が続くならいい。

(レビュー時点で)まだ2話目だが、まず気づくのは、つくりが安いこと。
どこ/どれというわけではなく、画のぜんたいから、版権獲得でほとんど使ってしまって製作費ぜんぜん残ってないんですよ──という感じが伝わってくる。

100歩譲って予算は目をつぶったとしても、梨泰院クラスのもっとも重要なキャラクターはキム・ダミが演じたイソだったと思う。
かのじょは攻撃的/衝動的/自己中心的/反社会的/無責任だったにもかかわらず、天才で、なぜか憎めないキャラクターでもあった。
それが平手友梨奈の葵はよくある生意気な女になっていた。これは違う。鼻持ちならない若い女なら日本製ドラマにありふれている。イソは特別に異質なキャラクターであり、それが梨泰院クラスの肝だった。

長らく日本式の芸能の中心部に生意気や無愛想や塩対応といった「負の人格をエロス資産で言い訳するタイプの女」(さんま御殿に出てくるような手合い)がいるが、いまの時代、マーケティングとしてもキャラクターとしても、もはやぜんぜん違うと思う。