津次郎

映画の感想+ブログ

自分と向き合う 僕と頭の中の落書きたち (2020年製作の映画)

僕と頭の中の落書きたち

3.6
豊かな個性と卓越したお料理スキルをもつアダム(Charlie Plummer)だが、統合失調症と診断される。高校で恋におち、病を秘密にしようとするけれど、うまくいかず・・・。

はたからみると異常にしかみえないアダムの苦悩がよく伝わってくる映画だった。
ヒロインのマヤ(Taylor Russell)に魅力があり、貧乏をひた隠しにしている女子にきゅんとなるセオリーも確認できるが、主題が重く安易な学園ドラマへは落ちない。真摯な話だった。

ただし映画の仕掛けとして、母の後夫ポール(Walton Goggins)が、ワルそうにしか見えないのがズルい。圧倒的にMotherlyな見た目をもつ母(Molly Parker)のパートナーとして怪しさが際立つ。
逆に映画慣れしている人から見るとポールが出てきた時点で「ワルそうに見えて実はいい人オチ」のフラグが立ってしまう──という“弊害”もあった。

なおアンディガルシア演じる聖職者には貫禄があった。

──

ところで、映画を見たくないときがある。
誰しもあると思うが、周期的にくるのと、現実生活でなにか嫌なことがあって突発的にくるのがある。
その状態にあるときは、じぶんの映画好きを疑わしく思うほど、映画を見たくならない。

わたしは現実から逃避するために映画を見る──と言うことがあるが、それはウソじゃないし、じっさい逃避を試みるが、映画で逃避できるなら苦労はしない。ご存知のとおり現実は映画を見て忘れることができるほど、やさしくない。

見たくないとき無理して映画を見ても、すぐにやめてしまう。
そんなときはTiktokやYouTubeのショートをひたすらスワイプしていたほうが何倍もましだ。

じぶんは、ふだん「~である」などと大上段かつしゃちほこ張った文体で映画レビューを書いているが、正直なところTiktokやYoutubeをだらだら眺めていた方が楽しい──と思うことは、ある。
落ち込んでいるときはなおさらだ。

わたしは精神病ではないので精神病をわずらっている人の気持ちは解らないが、そのような人を、なんとなく推し量ることができるのが、自分自身が落ち込んだときのみじめな気持ちであろうと思う。

むろん病気の精神状態はそんな生やさしいものではないかもしれないが、きほんてきに人を思い遣るばあい、それがなんであれ「自分自身の体験にもとづいて推し量る」ほかに、方法はない。

──と精神病の苦しさを想像してみる一方で、昭和の根性論みたいな気質が、じぶんの中にないわけではない。

わたしは若い頃「寝坊しました」と言わなければいけないところを「じつは不眠症で」と言ったことがある。それを言うとき眉間に皺を寄せ深刻な顔をしていた。あとになってじぶんに向かって「おめえ“不眠症”ってんなんだよ」と言った。

すなわち、精神病の告白はその人の怠慢を言い訳してくれる。
そうやって精神病を生活態度の言い訳にする人が0パーセントだとは、思わない。

ただ個人的に“精神病”をみずからのブランド+マネタイズしているインフルエンサーにたいして腹は立たない。
なぜならそれができる(精神病を人様に披瀝できる)のは春秋の間だけだから。
メディアで年配以上の精神病罹患者を見たことがありますか。
人口比からして若者以上に精神病罹患者がいるにもかかわらず、おじさん/おばさん/老人には統合失調症も解離性障害も強迫性障害も鬱病も双極性障害も居ないかのように見える。むろんそんなことはない。
人は春秋を過ぎると(年をとると)、じぶんの問題に対して問いかけをやめざるをえなくなるのだ。