津次郎

映画の感想+ブログ

戦略的愚直 きっと、うまくいく (2009年製作の映画)

きっと、うまくいく(字幕版)

2.5
(偏見や憶測があります。この映画やインド映画を好きなかたは読まないでください。)

何年も、いや何十年もまえからつぎはインドがくると言われていてインドのファンドや関連ETFを試したり検討したひとは多いだろう。
インドは00年来経済成長を維持している。数年で日本のGDP(世界3位)を追い越すと言われ、人口においても中国の14.3億人に対しインドは14.1億人(2022)で、はやければ来年(2023)にも中国を抜いて世界一になると言われている。

ざっぱくな感慨だが、国の興廃は国民の性格にあらわれる。たとえば毎日SNSに日本人は堕落したという趣旨の発言が多数あがり、個人的にはそれに賛同してしまえるが、その法則を適用するなら勃興を続けるインドは健全になっていかなければならない。

が、伝わってくるインド社会はいつも壊乱している。むろんインドへ行ったことも住んだこともないにんげんが限られた情報にもとづいて言っているに過ぎないがロイターでも共同でもAFPでもインドの話題といえばいつもすべてがrape。どうなってんだ──っていうくらいrape事件とその抗議運動の報道しかない。

またインド映画にはアートハウスやカウンターカルチャーに属する映画がまったくない。すべてが“盛った”設定のブロックバスター映画になっている。むろん政情ゆえの理由もあるだろうがわたしたちはインド人の“盛っていない”市井の生活環境をほぼ知らない。ボリウッド内の景観とプリヤンカチョープラーをインドだと思っている輩だっているかもしれない。

カウンターに属する映画がないということは(簡単にいえば)自国民を悪く描く映画がないということだ。主人公は無垢で女たちは清らかで勧善懲悪が為される。

だから(悪く言えば)「おまえらこんな善良なにんげんじゃねえだろ」と思うのである。
わたしは日本人が善良なにんげんではないことを充分知っている。それは日本映画の品質と内容に如実にあらわれている。だがボリウッド映画はインドの内実をまったく伝えてくれない。ボリウッドはいつでもどこでも正義の男と心の清らかな女が勧善懲悪をおこなう映画になっている。

だからボリウッドはうさんくさい。
じぶんとて踊るマハラジャのようになにがなんでも踊り倒して圧倒するボリウッドパワーが解らないわけではない。だが一方に内省的な映画があっていい。冷静に自国を見つめ直している映画があっていい。上位GDPの文化圏にはかならず独立orリベラルな自主製作が存在する。中央と逆の意見を持った創作がある。

──というわけで多数の人々の共感をえてベストにもあがる『きっと、うまくいく』だが、個人的には全編がうさんくさかった。

とはいえ本作も他のボリウッド映画も基本的に熱意や良心によってつくられていて、がんらい扱き下ろされるような映画ではない。

見識の分かれ目は“愚直”をどう見るか──による。

世界中に旋風を巻き起こしている「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」。グッドドクターの弁護士版という感じ。良質なドラマだが個人的には演技者が演じる“愚直”や“障害”には白ける。

日毎SNSやTiktokにヨンウとグラミの挨拶がかわいいとの声や動画があがる。が、わたしにとってパクウンビンは充分すぎるほどわざとらしい。なんならグッドドクターのFreddie Highmoreもチュウォンも山崎賢人もわざとらしい。スリングブレイドのソーントンも7番房の奇跡のスンリョンもわざとらしい。マラソンのチョスンウもそれだけが僕の世界のジョンミンもわざとらしい。

絶対的愚直や知的障害は座頭市の勝新太郎やI Am Samのショーンペンみたいにものすごくうまくないとぜったいムリ。──だと(個人的には)見ている。

そもそも世界は上面ではわからない。

たとえば、戦争で打ちひしがれた気分を慰めてあげたかったのでウクライナ人を招いてパーティーを開いた──という表向きの体裁にたいして、じっさい呼ばれたのは未成年をふくむ女性だけで、日本側の参加者は全員年配の社長や重役たち。パーティーの真の目的は愛人契約や体を引き換えにした仕事の斡旋などだった。

──そのパーティーの模様を撮った映像には泣いているウクライナ女性を励ましてあげる日本人の様子しか映っていなかった。ので、戦争で傷ついたウクライナ人を慰めているのだろう──と好意的に解釈できますか?

リテラシーとは疑い深さやひねくれ度のことだ。

わたしは疑い深くひねくれたにんげんなのでインドで工学をめざす学生たちがこれほどまでに愚直で純朴とは思えなかった。笑いがグーグルアシスタントの駄洒落レベル。高揚と転落がないたあかおにのように童話的。なりふりかまわない圧倒的クサさ。

──

日本の「かわいい」とは自愛と“同調を誘う身悶え”のことだ。まいにちまいにちSNSやTiktokにかわいいが並ぶ。かわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいい・・・並ぶとじぶんが好きになれ共感も得られる。

純粋なもの、たとえば猫を好きなとき、かわいい発言者の健やかな人間性も伝わる。かわいいと言ったときの“好ましさの醸成”に無自覚なにんげんはいない。猫動画にかわいいと言い野良に同情を寄せると発言者は完全にいい人になれる。逆張りをするような奴でも「猫なんか大っ嫌い、蹴っ飛ばしたいわ」とは言わない。そんな猫のような雰囲気がこの映画にはある。つまり『きっと、うまくいく』を嫌いと言ってしまうとレビュアーにマイナスイメージがもたらされる──のである。

そんなこの映画の気配がきらい。

・・・とはいえ、ひねくれ者のこまっしゃくれた見識を乗り越えるばかばかしいほどの熱量があったのは確かですw。