津次郎

映画の感想+ブログ

アル中と娼婦のはかない恋 リービング・ラスベガス (1995年製作の映画)

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3.6
日本は他の国よりだめ人間・クズ人間を主人公とした映画が多いです。

てことは、わたしたち日本人はだめ人間を主人公とした映画を好んでいるか──と言えば、そんなことはない。と思います。

日本にだめ人間を主人公とした映画が多い理由は、それが好きな監督が多いからです。観衆の好みとは関係がありません。

(個人的な考察・憶測ですが)なぜそうなってしまっているのか──と言うと、出発点がポルノの監督がきわめて多いことに所以しています。

現世代はちがいますが旧世代、業界の重鎮と呼ばれる監督はキャリアのスタート地点がポルノの人だらけです。荒井晴彦、石井隆、井筒和幸、神代辰巳、高橋伴明、廣木隆一、若松孝二、瀬々敬久、和泉聖治・・・滝田洋二郎や根岸吉太郎さえポルノ出身者です。

で、ポルノでは構成上、女を脱がさなきゃならないゆえに、だめ・クズ人間が必要不可欠になってきます。

女は夜の商売で、男はヒモで・・・そういう定型の四畳半ドラマをつくりつづけた結果、だめ・クズ人間に美学あるいは娯楽性を見いだすようになったのが、日本映画の先達者たちです。

メインストリームでいい映画をつくった監督もいますが、個人的に日本映画は勘違いの歴史をたどってきたと思っています。飲んだくれて女をぶんなぐる男に美学も娯楽性もありゃしませんよ。勘違いがまかり通ってきたから日本映画が衰退したわけです。

で、旧世代がポルノの呪縛に絡め取られたのはいいとして、ポルノと関係のない現世代はだめ・クズ人間が嫌いなはず──と思うじゃないですか。

あにはからんや。

現世代の監督もだめ・クズ人間がだいすきです。いったい彼らの視点からどういう現代が見えているのでしょうか。日本映画界とは昭和を続けるレミングの大移動です。

さて、現世代の監督たちもだめ・クズ人間が好きなことで、ポルノ出身だから──の理屈が破綻していると思うかもしれませんが、そうでもありません。

だめ・クズ人間には、やられる女がつきものです。この設定を利用して女優をいただくのが監督の目標です。かつてのポルノ製作現場の風潮がそのまま日本映画界の風潮に移行したわけです。身も蓋もない見解ですが、旧世代も現世代も、下心が映画監督の本懐です。園子温や榊英雄は氷山の一角でしょう。

つまりクリエイティヴィティが発露しているふりをしつつ女優を追いこんで懇ろになろうってのが日本の映画監督の真の目的です。そんな業界が衰退するのは当たり前なのです。

──

Leaving Las Vegasはだめ・クズ人間が描かれた、一見日本映画のような外国映画ですが、真に迫る気配とやるせないペーソスを持っていました。破滅する人間を描くにしてもこけおどしやはったりでなければ訴えるものです。

日本の映画監督が破滅を描くのは、そのニセの作家性を通じて周りの人々を威嚇したいから──でもあります。簡単にいうと映画製作をつうじて「おれは怖い男なんだぞ」と言いたいわけ。園子温はまさにそれ。北野武も威嚇を動機とした映画をつくりました。

海外では作りたいもの、言いたいことがあって映画がつくられます。そもそも絵であれ小説であれ映画であれ、作品の創作動機はそれが正道です。ところが日本映画界で映画がつくられる理由は監督自身の承認欲や権力欲による場合があります。監督さまと崇められたい──それが日本の映画監督の動機になっていることが多々あります。

Leaving Las Vegasには、しぬまで飲むために換金した金をすべてお酒にして飲んだくれるベン(ニコラス・ケイジ)と娼婦のサラ(エリザベス・シュー)のはかない交流が描かれています。

なぜベンが飲みつづけるのか明かされませんが最初こっけいな酔っぱらいにしか見えなかったニコラス・ケイジがだんだん気の毒に見えてきます。気分によっては、ふたりの零落に共感をおぼえさえします。Leaving Las Vegasには人と人が傷をなめ合う様子が描かれているのであって、だめ人間の末路が描かれているわけではありません。

ペーソスと熱演の甲斐あってLeaving Las Vegasは名作になりました。Imdb7.5、RottenTomatoes91%と85%。
Leaving Las Vegasが名作になったことで、もっとも建設的だったのはエリザベス・シューが報われたことです。本作が公開された当時の謳いは、清純派のシューが汚れ役を演じたことの衝撃でした。

脱いで玩弄される役をやった女優が報われたか報われなかったか、考えたことがありますか。じぶんはわりと考えます。こんなとこ(こんな監督のこんな作品)で脱いじゃってかわいそうに──などとよく思います。日本で脱いだ女優が報われたことってあったのでしょうか。

じぶんは前に若松孝二監督の「完全なる飼育 赤い殺意」(2004)のレビューにこう書きました。

『主演の伊東美華氏のウィキペディアには2004年以降の活動歴がない。で、もういちど繰り返すが日本映画界というのは言ってみれば加虐に歓びをかんじる映画監督の無意味な要求をのんで散っていった数知れない無名俳優たちの墓場──である。
(中略)
この映画は伊東美華氏が気の毒。ほとんど全裸でがんばっている。ひたすらそこだけで他の感想はまったくない。余計なお世話だが消えた俳優の熱演を見ると「どこかで楽しく暮らしてますように」とか思う。』

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