津次郎

映画の感想+ブログ

インモラルな スターシップ・トゥルーパーズ (1997年製作の映画)

スターシップ・トゥルーパーズ (吹替版)

4.0
ヨーロッパ人がアメリカで仕事をすると、うるおいが減り陽性化し軽くなる。不合理が合理化され、隠喩が直喩になり、レイトも汎化する。「Americanized」の言葉どおりの変化がおこる。
このときどうしてもアメリカ化しきれなかった強い作家性が映画の妙味になる。

ハリウッドに進出したバーホーベンがさいしょにつくったのがロボコップ(1987)。
世界じゅうで大ヒットし一躍バーホーベンをドル箱監督に持ち上げた。が、ごらんになればわかるとおり、アメリカンなロボットエンタメ(リアルスティール/パシフィックリム/ショートサーキット/バンブルビー・・・etc)とは異なる“湿度”がロボコップにはあった。バーホーベンはなんとなく性的で淫靡なのだ。そんな描写がないにもかかわらずロボコップに出てくるナンシーアレンはなぜかとても官能的だった。

すなわちバーホーベンは、ハリウッドシステムの中でも飛び出てくるほど強い作家性の持ち主だった。
これはひとつのバロメーターだ。向こう(外国)で映画をつくったとき“個”が立ち上がる監督もいるし、誰が撮ったのかわからないような映画ができてしまう場合もある。海外進出は、監督が作家なのか、ただの現場監督なのか──を明かしてしまう。

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ハインラインの宇宙の戦士はガンダムはじめ日本のロボットアニメやスタークラフトなどゲームにも多大な影響を与えたエポックだが、バーホーベンの映画「スターシップトゥルーパーズ」以降は、宇宙の戦士と言えばバーホーベン版の宇宙の戦士のことだった。と個人的には思う。

バーホーベンが創造した未来世界はシャワールームが男女混浴になっていることだった。そんな瑣末時──と思われるかもしれないが、現実にそれがスターシップトゥルーパーズの訴求ポイントと化した。続編が軒並みB級化したのはそのせいだ。もちろん原作には男女が一緒にシャワーをあびるシーンなんかない。しかしスターシップトゥルーパーズ公開当時、男女が一緒にシャワーを浴びるシーンを見たわたしは、その奇異にきょうがくした。「なるほど未来では男女が一緒にシャワーを浴びるのか」と、感心もした。

それがバーホーベンの作家性だった。サービスで裸を挿入したいならば、もっと暴れない方法がある。男女がなぜか一緒にシャワーを浴び、その状況にまったく物おじしないDina MeyerがCasper Van Dienの尻をペチッとひっぱたく──奇景がむしろ未来世界を表現してしまっていた。バーホーベン版といえる新しい宇宙の戦士がそこにあった。

低迷もあったがバーホーベン作品をつらぬく特長は「インモラル」である。Benedetta(2021)は未見だがオランダ時代やElle(2016)はぎらぎらと扇情的、生理的だった。つまりスターシップトゥルーパーズの面白さは克己主義なハインラインをインモラル作家のバーホーベンが描いた妙味だった。

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世界じゅうの人々に愛される名著宇宙の戦士だが否定派もいる。
軍国主義を称美するような描写によって、宇宙の戦士はリベラルな人々から非難を浴びた。小説内の世界では従軍経験がないと市民権が与えられない。戦わなければ生きる資格がない──とまでは言わないものの、そのような全体主義(ファシズム)が描かれていた。

とりわけ戦後世代が多かった昭和期には、宇宙の戦士のファシズムに対して多数の否定派がいた。わたしが持っている文庫版の巻末には訳者とアンチの攻防みたいな逸話もあった。

ただしハインラインは克己主義者ではあるが単に器用なだけだ。
克己主義とは鍛えられていない未熟者に資格や権利はないという考え方であり、それを表看板にするとファシズムに見えてしまうが、人間が克己しなきゃならないのは社会通念や常識の範疇である。
つまりハインラインはファシズムを描きたかったのではなく「だらだらと自分勝手に生きてはだめだ」と言っていた──に過ぎない。

そもそも月は無慈悲な夜の女王では真逆な革命家/反体制組織が主人公だったし、老いるほど作風はくだけていった。宇宙の戦士がファシズムを称美しているととらえたのは戦後世代の過剰反応だったと個人的には思う。

ところで宇宙の戦士がファシズム論争から解放されたのは、バーホーベンのスターシップトゥルーパーズのおかげでもある。

なぜならスターシップトゥルーパーズは「だらだらと自分勝手に生きてはだめだ」との教訓を含有するハインラインの宇宙の戦士を「インモラル」作家のバーホーベンが描いた映画だった。からだ。
ちなみに「インモラル」は辞書に『道徳、道議に反すること。不品行であるさま。』とある。
かつて、さんざんファシズムを非難された宇宙の戦士をバーホーベンは男女が一緒にシャワーを浴びる進歩的未来の話に昇華してしまったのである。

結局(繰り返すが)スターシップトゥルーパーズの面白さは克己主義なハインラインをインモラル作家のバーホーベンが描いた妙味だった。
バグをやっつける星間SFなのに、なぜかエロ気配を内包してしまう作家性──。

逆に考えてみれば、バーホーベンのオランダ時代──生々しくセクシャルなTurks fruit(1973)やSpetters(1980)から、商業SFをかれに任せてみようという発想は出てこない。すなわちバーホーベンの成功はハリウッドの慧眼でもあった。

(ところでVをヴにするならヴァーホーヴェンです。ヴァーホーベンは片手落ちです。だからいっそのことバーホーベンでいいんじゃないかと思うのです。)