津次郎

映画の感想+ブログ

ドバイから日本を変える黒い人

◆あんがい旧弊な有権者たち

ふしぎな感じがするのだが、ガーシー議員の報道に対してヤフコメにはアンチコメントしかあがってこない。
youtubeの切り取りでも、tiktokのガーシーねたでもアンチはけっこう多い。

わたしはガーシー議員に対して期待感しかない。

政治のことを知らないし、とくにきょうみもない。またガーシーのファンというわけでもない。だが、そんな野次馬的な立脚点だからこそガーシーの暴露には期待感しかない。
ガーシー砲が有効であろうとなかろうと、今までに見たこともない戦略に、言うなればドラマの続編を待っている気分──がある。

そもそもやっていることがわかる政治家といえばガーシーだけだ。
かれはネットの配信サービスを駆使し、いろんな人の暴露をやっている。
そこには大勢の人々が集まってきたが、いままでに見てきた一般的な政治家の姿からかけ離れていたがゆえにアンチも生まれた。

では「いままでに見てきた一般的な政治家」とはどんな様態で、われわれに何をもたらしてくれていたのか。

ガーシーがあらわれるまで「一般的な政治家」とは高い給料をもらって居眠りをしている人たち──だった。
政治家という仕事が何なのかわかっていることといえば、居眠りができて、給料がいい──ことくらいだった。

そうではない──なら政治家たる彼/彼女がなにをやっていたのか、どんな発言をしていたのか、わかっていただろうか。・・・。

政治記者とかシンクタンクとかではない庶民であれば、政治家についてわかっていたことと言えば高い給料と居眠りOKだけ、だったのである。

そこへ風穴をあけてくれそうな面白い人物ガーシーがあらわれた。ネットを使って発信するので、すくなくともなにをやっているのかがわからない人ではない。それどころか未だかつてガーシー議員(や立花党首)ほど日々なにをやっているのかが明瞭な政治家はいなかった。

つまり「なにをやっているかがわかる」だけで期待感の根拠になりえる。
それを受け容れることができず、謂わば従来型の政治家で足りるとするのがアンチの立脚点ということになる。
ガーシーが邪道なのは瞭然だが、邪道がダメなら、必然的にいままでの一般的な政治家の様態を肯定することになってしまう。

これらの見方が親ガーシー過ぎるなら期待感を面白味と言い換えてもいい。わたしは「ガーシーは面白い」と言っているのであり、ガーシーの活動がどんな作用をもたらすにしても、すくなくともやっていることがわかって、居眠りしていないことは、ガーシー以外の議員と比べたときに歴然としたポイントになり得ることを指摘しているのである。

それでもガーシーが成し得たことを列挙せよとか、ガーシー砲なんて効いてないぞとか言いたいのなら、ぎゃくに他の政治家の発言や仕事や成果を挙げることができるだろうか?

ガーシー議員が誕生した参院選で、おなじく初当選した芸能人議員(維新)が、先日(2022/11/15)国会質問に立ち、発言の終わりまぎわに新曲およびディナーショーの宣伝をした──というニュースがあった。

タレント議員の不慣れさが格好のニュースネタになってしまうことを察して、瑣末な報道は捨て置くべきだが、かれの政治活動として「初質問で新曲とショーの宣伝をした」以外で、なにをやったか知っている人がいるだろうか。

政治家は概して、不祥事や舌禍しか伝えられない。良くも悪くもかれらが何をやっているのかまったくわからない──わけである。

──である以上、ガーシー議員の暴露に成果がないとか、(帰国して)国会への出席がないとかの咎めは言い掛かりだろう。

繰り返すが他の政治家はなにをやっているのかがわからない──のであって、配信サービスを使い、どんなことを考え/言っているのかがわかる政治家といえば、ガーシー議員や立花党首だけ──なのだ。

だからこそヤフコメがひとしなみにアンチに染まっていることを「ふしぎな感じ」と言ったのである。特定の政党支持者や政治的人間でなければ「ガーシーは面白い」というのがニュートラルな見地であって、いまさら政治家に正道をもとめるスタンスがわからないのだ。

◆邪道への期待

人々の政治家観でよく感じるのは、好ましさを感じる人物へ傾倒しやすい──ということ。それは当たり前だと思うかもしれないが、わたしは政治家というものは人に好かれるパーソナリティでなくてもかまわないと思っている。むしろそんなことはどうでもいい。だが、多くの人々が政治家のフレンドリーな態度やムードに価値を見いだしてしまう。

選挙があるため、人に好かれなければならない構造上仕方がないことでもあるが、本質的に政治家はどんなパーソナリティであろうと、しっかり仕事をしてくれればいいのだ。友達になるわけではない。

ところが人々はその構造に対して純粋すぎる。無垢すぎる。
「選挙ではきれいごとをならべて当選したらなにもしない」という、よく使われる嫌味があるが、政治家が「選挙ではきれいごとをならべて当選したらなにもしない」のは構造的に当たり前なのだ。猫も杓子もそうするだろう。

すなわち政治家が得てしてそういうものであるという諦観というか懐疑心が人々のなかに無さ過ぎる。いったいこの期に及んで政治家に何を期待している──というのだろう?

少なくない候補者が安定収入のために市町村議会へうってでるのだ。ほとんどの老議員が収入のために現職にしがみついているのだ。よもやそれをまったく知らないとでも言うつもりだろうか。

つまりガーシー議員には期待感しかない──という言説の根拠として、かれが従来型の政治家ではないことだけでじゅうぶんなのだ。

いままでの一般的な政治家とは違うからこそ票を集めたのであり、ガーシー議員が獲得した約29万票は自・公と立憲の1人を除いて、どの候補者よりも高い得票数だった。
みんなが邪道なガーシーに期待したのである。

◆まっとうな人間性

邪道とはいえども、話を聞いているとガーシーが律儀でむしろ古風とすら言えるタイプなのはおのずとわかる。時間や不義理に対して厳しい。情に篤く、謝罪を受け容れたり、相手の態度で軟化することもある。ぎゃくに攻撃対象と見なした者は峻烈に叩く。明瞭なけじめを持っている。

器用でもある。
経済学者の成田悠輔や、ジャーナリストの須田慎一郎との対談ではトーンを変えていることがはっきりわかった。
たいていの著名人/インフルエンサーは誰にたいしても同じ態度なので、TPOの使い分けができるガーシーに老練を見た。厖大な人脈を渡り歩いてきた来歴を感じとることができた。

もちろんわたしが把捉したガーシーの人物像はまちがっているかもしれない。けっきょくはどんな人かわからないのかもしれない。しかし、それを言うなら、ガーシー以外の政治家はもっとわからない。

ガーシーという人物像は他の政治家との対比のなかに存在している──のではない。沢山の政治家のなかでガーシーひとりだけがその人物像を開示しているのだ。

繰り返しになるが他の政治家はなにをやっているのかがわからない──のであり、配信サービスを使い、曲がりなりにもどんなことを考え/言っているのかがわかる政治家といえば、ガーシー議員(や立花党首)だけ──なのだ。

それ以外の政治家はどんな人なのだろう?
断片的に伝えられる発言から拾い読みするしかないが、拾い読まれ、推量も交じった政治家の人物像は、ガーシーよりも不確かだ。
ひょっとしたら彼/彼女は表向きは善人をつくろって、裏で悪いことをしているかもしれない。なにをやっているのかわからない──ということは、そういうことだ。

◆じぶんの言葉

だいたい発言するにしても政治家はガーシーのようには話さない。

ガーシーの語録で知った言葉に「置きに行く」というのがある。ガーシーが発明したのではないが、ガーシーが使っていることで知った。

weblio辞書には──

『野球において、ピッチャーが四球を恐れるあまりストライクゾーンへ「置きに行く」かのように速度や変化を抑えた球を投げることを意味する俗語。転じて、自分の本当にしたいことやチャレンジすることを恐れて無難な手段をとることも意味することがある。』

──とあるが、ガーシーは対談においての率直ではない発言、紛らわし、おちゃらかし、保身などの守りの物言いやポジショントークを置きに行くと揶揄している。
とうぜんガーシーは置きに行ってはいけない──と言っているのだ。自身はもちろん対談者にも赤裸々に攻めてくる言動を求める。

しかし一方でガーシーは置きに行ってしまう発言者の気持ちがわからないわけではない。芸能人との対話のあとで、ファンや後ろ盾やスポンサーやしがらみを持っている人が形式的な会話におちいるのは仕方ない──と理解を示すことがよくある。

それを、かえりみたとき立場が逆転していることに気づく。
一般的な概念では、無難な言葉をえらんで慎重に話さなければならないのは国会議員であるガーシーのほうだ。しかしかれは世間に登場したときからいちども置きに行ったことはなかった。常にじぶんの言葉を使って語りかけた。

詐欺をはたらいたことがある人物に誠実という言葉をあてるのは不適切かもしれないが、見たところかれは誠実としか言いようがないのである。

ガーシーのファンではないにせよウォッチャーとは言える時点で“寄り”のバイアスはあるのかもしれないが、ガーシー砲による各界の浄化作用にわたしは大きな期待をしている。

了。