津次郎

映画の感想+ブログ

新版 チャタレイ夫人の恋人 (2022年製作の映画)

チャタレイ夫人の恋人

3.5
昭和の洋画劇場におけるチャタレイ夫人はわたしたちがまみえることができるエロの限界値だったが、とはいえ文学なので男の子には物足りなかった。むしろプライベートレッスンとかリンダブレアのチェーンヒートとかEdwige Fenechの出てくるイタリア映画のほうが翌日の学校で話題になった。・・・。

小市民のわたしにとってチャタレイ夫人とはそんな感じのものである。

じぶんが知っているのはジャカン/クリステル版だが原作のWIKIには映画、テレビと多数の映像化が並んでいた。

なお今作はRottenTomatoesで『よく映像化されるこの物語の、間違いなく最高のもの』と評されていた。

夫人役Emma Corrinが若い印象。童顔もあるがチャタレイ夫人という語からくるMilf値を打破していたのはフレッシュだった。

森番役Jack O'Connellには野味があった。面構えに不服従が貼り付いている。Unbrokenやマネーモンスターに出ていたかれをよく覚えていた。

監督は女性であきらかにその気配があった。気がする。

チャタレイ夫人のもっとも劇的なモチーフは「女がみずからもとめる」ことだ。

現実にはふつうのことだがそれが物語化されて問題視された。さらに「女がみずからもとめる」の冠に「上流階級の」が付いて、いよいよ発禁になった。

しかし時代が経過した現代(2022)ではコニー(チャタレイ夫人)は単に純粋にしか見えない。

けっきょくチャタレイ夫人の恋人は今ではもうコニーとオリバー(森番)の恋愛物語にしか見えない。

その恋愛のもっとも熱い初期の躍動をとらえている。
そこに、なんとなく監督の性が介入していた。
ふたりともすっぽんぽんで求めまくるシーンでさえエロくなかったのはLaure de Clermont-Tonnerre監督がじょうずだった、ことにくわえ女性だったから、もあるだろう──と思った。のだった。

ところで、そもそもチャタレイ夫人の恋人とは──
旦那は(同じ階級の)種男を探して子供をつくりなさいと認可しているのだから、性交渉じたいに不義理はない。ただし森番は階級が釣り合わないし種男と愛し合うのも想定外だった──という話。
現代にかえりみるとなんじゃそりゃな話ではある。

ただし物語の中でコニーがあなたが彼にひかれているのは愛ではなく肉欲に過ぎないと諫められるところは普遍性があった。男は愛か肉欲かなんてことをあまり考えないが女はけっこうそれを考える。(じぶんの乏しい経験からの推定に過ぎないが。)

余計なお世話だがコニーとオリバーだってやがて冷めてしまうのかもしれない。
つまりチャタレイ夫人の恋人が再三映像化されるのは急峻に沸騰するふたりのその後を描かなくていいから──なのかもしれない。

Emma Corrinが出色。ほこりっぽい昔の女をみずみずしい当世風のヒロインに変えてしまっていた。