津次郎

映画の感想+ブログ

熱演の空虚 完全なる飼育 etude (2020年製作の映画)

完全なる飼育 etude

1.0

(ぜんぶ妄想憶測偏見ですが、)
日本映画界はポルノ映画の出身者が多いです。
その結果ポルノ映画における監督と役者の位置構造が、そのまま日本映画界の監督と役者の位置構造に移行している──のが日本映画界です。

ポルノ映画従事者の内懐は「女優とやれるかもしれない」です。その目的達成のためにかれらが編み出した手段がエセなひたむきさで女優を追い詰める撮影です。崇高なこころざしをもって映画製作に打ち込んでいる気配をかもしつつ、ダメ出ししまくって追い込むと女優がうまいぐあいに壊れて身体をゆるすわけです。
(精神論は事後の釈明にも使えます。貴女と一体化することによって映画に魂が宿る~とかなんとか適当に創作してヤっちまうわけです。)
そうやって女優を食いものにしてきた日本映画界ですが日本にもようやくMeTooの波が及んで園とか榊とか派手に食いまくっていた輩が露呈しはじめました。

時代が進んでポルノができなくなった日本映画界は、性や脱がすことをアートやポエムに昇華させて、なにがなんでもポルノ的位相を維持しようとします。それが日本映画です。ポルノは謂わば業界の宿痾です。業界人の憑きものです。凝り固まった日本映画界にとってMeTooの浄化は氷山の一角にすぎないと思います。

たとえば佐藤二朗が監督したはるヲうるひとという映画がありますが、いっさいポルノ気配のない佐藤二朗さえも、自身が監督した映画の中では娼館の主人役となりち○こをなめさせているわけです。理解できないセンスでした。そんな世界が堂々と描かれてしまう日本映画界の特殊性を痛感しました。このばあいの痛感とはイタいってことです。きょうび世界のどこに役とはいえち○こなめさせる俳優兼監督がいるのですか?これは佐藤二朗がどうこうという話ではなく日本映画業界に呪詛のごとく根付いてしまっている性/ポルノについての話です。いったいセックスがなんだというのですか?という話です。重鎮荒井晴彦に火口のふたりという四畳半襖の下張のような映画がありましたが、まじでセックスがなんだというのでしょう。この2020年代にかれらの視点から何が見えているのでしょう。

はるヲうるひとの前後で佐藤二朗の立脚点は異なっていると感じます。こんなセンスの人だったんだ──という一定の驚きが観衆にあったはずであり、少なからず日本映画界の旧弊なセンス/異常性を感じ取ったのだと思います。マメシバとか吉野家とか銀魂とかの佐藤二朗が好きだったわたしにとっても親しかった友人から秘蔵のフィギュアコレクションを見せられた気分でした。

──

完全なる飼育とは女性を監禁して性的に搾取するという話です。こういう話がふつうにポジションされるのは、今の時代ではあきらかに異常です。とはいえわたしはフェミニストのフェミニスト的見解がきらいです。が、そういうことを言っているのではありません。たとえばケイトショートランドとテリーサパーマーのベルリンシンドロームのような立脚点ではなしに、あきらかに性的なアピール/サービスを目論んで女性が監禁されるという話を語るのが2020年代ではとんでもない勘違いだと言っているのです。
お茶の間の人気俳優がち○こをなめさせる娼館の主人を演じるのはあきらかにおかしいと言っているのです。
敷衍して、そういう感性/世界観をもっている日本映画界が絶望的に古色蒼然だと言っているのです。

U-Nextの概説には『衝撃の官能ドラマ『完全なる飼育』シリーズ第9弾。女性演出家が若手俳優に稽古という名の飼育をする、主従関係を逆転させた異色作。元宝塚男役スター・月船さららや元アイドルの金野美穂が体当たりの熱演を見せる。』とありましたが第9弾に至るまで誰がこのタイトルを見たがっていたのか/いるのか個人的には疑問です。

いちばん重要なのはレベルの低いコンテンツで「体当たりの熱演」をしてはいけない──ということです。おそらくセクハラ問題以上の日本映画界の課題です。日本社会に巣くう精神論/根性論に対するアンチテーゼです。
すなわちどうでもいいような作品のなかで身体をはってはいけないのです。ほとんどの日本映画はレベルの低い作品です。そういう作品のなかで自分を限界まで追い込んではいけないと思います。すり減らしてはいけないと思います。真剣が求められるならふりをしてしのぐべきです。真剣も真剣のふりも違いはありません。

完全なる飼育赤い殺意(2004)に伊東美華という女優が出演していました。

『(中略)この直後に行われた映画『完全なる飼育 赤い殺意』(若松孝二監督)の主演オーディションを受けることとなった。
オーディションでは最終候補約20人の中から絞り込まれた2人にまで勝ち残ったものの、結論は持ち越しとなった。翌日、マネージャーとともに若松監督の事務所を訪ねて直訴。度胸を試そうと考えた監督にその場での脱衣を要求されたところ躊躇うことなく即座に全裸になり、陰毛が長いことを理由に「その毛も全部剃るぞ」と畳み掛けられても「結構です」と即答した。このような過酷な要求を即座に承諾する心意気が評価され、その場でヒロイン役が決定したという。なお、この会話から劇中に佐野史郎による剃毛シーンが取り入れられた。
ロケ撮影は2004年3月に新潟県六日町(現・南魚沼市)で行われた。長年監禁されているという設定からすっぴんでの撮影であること、実際に佐野史郎により陰毛を剃られること、ヌードシーンでも前張り無しが前提であったことは本人にとり「三重苦」であった。オーディション時には勢いで全裸になったものの実は肌を露出する仕事は初めてであったため、映画の撮影現場で初めて裸になる日には羞恥心から物陰で泣いたという。』
(ウィキペディア、伊東美華より)

伊東美華氏のウィキペディアには2004年以降の活動歴がありません。
日本映画界というのは言わば加虐に歓びをかんじる映画監督の無意味な要求をのんで散っていった数知れない無名俳優たちの墓場です。そんなナンセンスな業界で自分をすり減らしてはいけないのです。

たとえばヘルタースケルターのなかで沢尻エリカは脱ぐ必要はなかったのです。これを、もっと簡単に端的に言うとあんだけ低レベルの作品のなかでは誰であろうと裸になる必要なんか一ミリもなかったということです。無能力な艦長を頂いて全力を尽くしてはいけないということです。沈没するまえに脱出するべきです。

近年ベルトルッチもシュナイダーもブランドも亡くなっているのにレイプまがい撮影だったことで論争が起きました。しかしそれがラストタンゴインパリならば、まだ甲斐があったというものです。日本映画はラストタンゴインパリの撮影しているわけではありません。泡沫作品のなかではとうてい身体を張る必要なんかありません。

そうはいっても役者は逃げられないのかもしれません。そんな弱い立場を利用するのが日本映画界の基本体質です。加えて拒まれても押し通せば受け容れられるというのが昭和ポルノの王道ロジックです。とうぜん園/榊/谷などなどは嫌よ嫌よも好きのうちだと信じて押し倒したわけです。冗談を言ったのではありません。完全なる飼育のなかでおこなわれていることと同じことが撮影現場でおこなわれているのです。にもかかわらず、そういう題材の映画を営々とつくり続ける日本映画界があほだと言っているのです。