津次郎

映画の感想+ブログ

うっせえわ 魔法少女まどか☆マギカ (2011年製作のアニメ)

魔法少女まどか☆マギカ

1.0

お好きな方は読まないで下さい。
メジャーどころの映画は見ますが基本アニメを見ない人です。

魔法少女まどか☆マギカは有名なのでタイトル及び評価が高いこと鬱アニメとか胸糞アニメなどと呼ばれていることは知っていました。
が、見たのははじめて。

言うなれば、みずからすすんで非運におちいっておきながらゴネまくる、ものすごくめんどくさいメンヘラが次から次へあらわれる、劣等感と不幸くらべと自己都合の後出しじゃんけん。登場人物全員殴りたかったw。アニメ見てるっていうよりコレコレの生放送聞いてる感じ。

見ているときの気分をさらに具体的に言うと、とても疲弊するスポーツがあって、わたし/あなたはそのスポーツ選手の労をねぎらうという役割を担ってしまった。コーチとか監督ではなく、たんに選手の労をねぎらうという役割。んで、わたし/あなたが担当した選手は、ことさらに激しく疲弊感を訴えてくる選手だった。

顔を苦悩にゆがめて、はぁはぁと乱れた呼吸を大げさにして、泣き言をくりかえす。だけどわたし/あなたは慰める役回りなんだから、どんな時でも彼女をねぎらい励ましなぐさめなきゃなんない。ところが慰労しているだけなのに、ときどき言葉尻をとらえて責められたりする。きみは何にもしてないだろなどと攻撃されることもある。・・・。アニメ版のジョゼと虎と魚たちで恒夫がジョゼのわがままを聞いてやる感覚に似ていた。

たとえば佐倉杏子は冷酷な人物として登場しながらあっさりと人心に懐柔され不幸な生い立ちを話していつのまにか温情派になって美樹さやかを救って自己犠牲していくが、そういう構造が青すぎる。臭すぎる。その変容をいちいちキメ語とキメ絵で中二病演出され、まじで辛かった。
なにもかも総てがお涙へ向かっていくための位相になっていて終局へ行くほど愁嘆がえんえんとつづく。ほんとに拷問だった。

時代は異なるがラジカルな言葉や教訓群で釣っていくのが「うっせぇわ」へつながっている気がした。過激な世界と向き合っているかのようなエクスキューズが似ていて主題歌と言っても過言じゃない──と思った。

この物語に影響をうけ信条としてしまった中二と関係を築かなければならなかった無数のZ世代たちのことを想って胸が痛んだ。
人間社会は生きるか死ぬかではなくて働いたり勉強したりするところで、一般的にドラスチックな駆け引きはないし鹿目詢子みたいな大人もいない。感化されてしまう世界観として突飛すぎるゆえに現実で鹿目まどか化した者の煩わしさを想像して戦慄をおぼえたわけですw。

ところで鬱や胸糞アニメという評価は、わたしの感想のような不快感を鬱・胸糞であると評したものなのか、それともまどかの哀しみに寄り添って鬱・胸糞であると言っているのか、わからなくなったが、両義なのかもしれないと考えた。
もちろん人を不快にさせることもクリエイターの力量と言えるのかもしれないし、ぜんぶネタです──ということなら文句のつけようがない。

個人的には青すぎて辛かったが、少なくとも鬱・胸糞アニメナンバーワンの評価は間違っておらず、そもそも本作品は厖大な波及・影響力をおよぼし、世界中で賛嘆されているので、ごまめのはぎしりに過ぎないし、不快感はクリエイターの思惑どおりでむしろ正常な反応──だとも思っている。

ひとつだけ、魔女描写が総て貼り絵などのコラージュになっているのが省力に見えてならなかったが、そういう批判はないのだろうか。

余談だがぼっちが売りのとあるユーチューバーが初期にかぶりものと形態模写をやっていて何らかのアニメキャラクターのコスプレなんだろうと思っていたがこれを見てそれがキュゥべえであることをはじめて知った。

不死や機械や多細胞などの属性をもつ知的な存在が、愛や友情や喪失感などの人間感情を一切解さないという設定は安易なフィクションにありがちではなかろうか。キュゥべえもそれであり「なぜきみたち人間は・・・」などと驚いてみせることで非情を表現すると同時に愛らしい外観でギャップ萌えも狙う。こういうのを子供だましというのだ。

現代社会で温情と冷酷の両極端を使い分ける空気感を出している人はまどマギの影響を受けている可能性がある──ような気がした。