津次郎

映画の感想+ブログ

FPSとGUIの関係 ハードコア (2015年製作の映画)

ハードコア(字幕版)

3.2
Hardcore Henry(2015)を見たとき、その評釈でFPSということばを覚えた。
First Person Shooterは一人称視点のゲームを指す。

きょうび、インターネットでは、多数の書き手が、英語の頭文字をつかった略号を「完全に周知の略号」という体裁で、書いている。

が、個人的には、それらの略号を知っていたことが、あまりない。いや、ほとんどない。
これはなかなか凄いことだ。と思う。

読み飛ばしながら、あるいは前後の文脈から、なんとなくそれ(略号)がなにを指しているのか想像しながら、読んでいる。のである。

個人的には、この現象(略号の意味が分からないこと)が、じぶんが無知だから、なだけ、とは思っていない。

インターネットには、専門的用語や、海外文化に詳しいことが、書き手を博雅に見せる──と考えている書き手がいる、と思う。

なぜ、そう思うかというと、じぶんがそういう文を書いていたからだ。むしろ、人様の知り得ないことを「完全に周知のこと」として書いてみる──ことは、なんとなく気分が良かった。

わたしはお百姓の息子だが、そういう中央のライター的気配を醸し出すのが、かっこいい、と考えていた。わけである。

とりわけ、ゲームやIT関連のこと──など「完全に解っている人に向かって話しているんですよ」という体裁の文だらけ、だと思う。いいのかわるいのかは知らない。が、読み手もわかっていないが、書き手もわかっている、とは感じない。

わたし自身、映画レビューにおいて、完全にポピュラーとは言えない監督の映画を、誰某の○○──と、あたかも完全に周知のことのように書いたりする。

ゲームにおけるRPGやFPSなど、ポピュラリティある語は、知らないほうが少数派──かもしれないが、方面に疎かったり、高齢であったり、素人がなにかを検索しているばあい、専門用語だらけの文には、なにか邪気のようなものを感じる──のは、おそらくわたしだけではない、と思う。

話を戻すが、FPSゲームでは、モニターの端からにょきと手が出て、うねうね動いている。
その手が、銃や剣など武器を持って戦う。わたしは下手なのですぐにやられるし、それ以前に、はげしく動く画面に数分たらずで気分が悪くなる。

個人的にはFPSの「どうだい、じっさいじぶんが戦っている感じがするだろ?」と言っているみたいな画面構成は好きではない。戦っている気にはならないし、分身となるキャラクターは俯瞰できたほうがいい。

それはともかく。映画のPOVが発明されたとき、それがいずれFPSゲームの疑似をすることは、想像ができた、と思う。
韓国映画のTHE VILLAINESS「悪女」(2017)も、FPS風の格闘から、映画がはじまる。

POVは「Point of View Shot」で主観ショットを用いた映画の通称である。Hardcore HenryもPOV亜種だった。

POVはブレアウィッチプロジェクト(1999)から一挙に広まった。
手法の最大の利点はお金がかからないこと。
ブレアウィッチは600万円の制作費ながら全世界で240億円の興行収入をあげた。
誰もが柳の下のどじょうを狙った。
雨後の筍のごとくPOVがつくられた。

『~中略、おまえはユーモアの本質について議論したいんだろう。冗談には二つの種類があるんだ。ひとつは永久に面白いまま続くんだ。もう一種類のは一度だけ面白い。二度目はつまらないんだ。こんどの冗談は二番目の種類だよ。一度使うとき、おまえは面白いやつだ。二度使えば、おまえは薄のろだな』
(ロバートAハインライン作:矢野徹訳:『月は無慈悲な夜の女王』より)

ひとつのアイデアが、二回目三回目・・・と続くばあい、それにたいする感興は、完全に減退したり、薄まったり──するものだ。

POV映画のスタンダードは、登場人物がカメラを持って他の登場人物を追っている──というスタイルである。大成功したスペイン映画REC(2007)もこのスタイルで撮られている。そしてほとんどのPOVがこのスタイルで撮られている。

このとき、もっとも重要になるのが、登場人物がカメラを回してることの必然性と自然さであろう、と思う。
設定や会話にわざとらしさがあれば興ざめする。ちょっとのわざとらしさも視聴者は感じとれる。
POVの宿命だが、なかなかそれを克服できない。言うまでもないが、ああこれはPOVスタイルの映画ですね──ということを、すでに観衆がわかっている、からだ。

そこで、自然さを出そうとして、わざと手持ちカメラをブレさせたりする。
すると、こんどは映画が、見づらくなる。

たとえば登場人物がカメラを回しながら廃墟を探索している──という設定はじゅうぶん理解できたとしても、その臨場感を伝えるための暗さや撮影の不安定さが、リアリティを押しのけて見づらくなる、のである。

おそらく観衆は「POVはわかったから、そんなに揺らさなくてもいいよ」と言いたくなってしまう、だろう。

ただ元来、予算のとれないクリエイターが使う手法だが、メジャー資本がPOVを取り入れると、やはり一枚うわてな映画になる。Hardcore Henryしかり。クローバーフィールド(2008)やデイヴィッドエアーのエンドオブウォッチ(2012)。シャラマンのヴィジット(2015)も面白かった。

クローバーフィールドでパーティー中、送別用のビデオレターを撮るというPOV常套手段が出てくる。ひとりづつカメラに向かってスピーチを寄せるのだが、お金のかかっている映画なので不自然さはない。だがもはや「ビデオレターを撮る」は使えない。つまりPOVをつくればつくるほど「なぜ登場人物が撮っているのか」の設定を生み出すことが困難になってくる──のである。

すでに飽和しているのだが、なおもPOVがつくられるのはお金のないクリエイターにとって代替できない手法だからだ。
短期間で撮れる。少人数で撮れる。一般人の撮影を想定するのでとくべつな舞台が要らない。手持ちカメラで、日常性や一般人の様態を見せたい──わけだから、むしろ有名な俳優でないほうがいい。──予算的には、いいことづくめ、である。

POVは変形を模索しはじめた。

カメラを監視モニターに置き換えたパラノーマルアクティビティ(2007)がヒットすると、POVが「主観ショット」という解釈から「映画を撮っているカメラではないカメラが捉えた世界」という解釈に変わった。
が、いずれにしても低予算だからそうするという動機から抜け出しているわけではなかった。

技法に関することだけならすぐに飽きがくる。
Hardcore Henryは、よくできた楽しい映画だったが、POVをFPSゲーム画面風にしたこと自体は、驚きの革命ではなかった、と思う。

言うなれば、それは、よくカレーをつくる人が、こんどは○○を入れてみました、と言っているようなものであって、それがヨーグルトであってもバナナであっても、チョコレートでも、納豆でも、絶対の革命的要素にはなりえない。

どんなに斬新でも、見始めて数分経てば技法そのものへの興味は薄れてしまう。
POVは『一度だけ面白い冗談』なのである。

ところが、観衆のそういったPOVにたいする一種の諦観を、完全に粉砕してみせたのがSearching(2018)だった。やるひとはいるし、やるひとはやるもんだ。

わかりきったことだが、point of view shot=主観の視点が、疑似や演出であることを知らないひとはいない。
一方、FPSの「手」がじぶんの手だと認識できないひとはいない。
が、GUIとして、かならずしも3D画面が最適とはかぎらない。むしろ見づらい。

技法とはそれだけのことだ。Searchingもカメ止めも、技法は使いつつも、最終的に家族の話に昇華させたことが長じたゆえんだった。

すぐれた映画が、人間の話にしようとするところは、GUI=人が使い易い、視認性の高い画面構成にしようとする理念に、とても似ている。

Hardcore Henryを見ながら、そんなことを思った──のだった。