津次郎

映画の感想+ブログ

静かな少女 コット、はじまりの夏 (2022年製作の映画)

The Quiet Girl

4.0

親に褒められるのがなんとなく照れくさくて嫌だった──というのがある。「おまえはできる子なんだから」と言われても、だいたい「そう言ってくれているんだな」ということが解るし、そもそもじぶんはできる子ではなかった。
だから心の中で「いや父さん(母さん)あなたは知らないだろうがね、おれはクラスでみんなからばかにされているんだ、父さん(母さん)が想像もできないほどみじめな子なんだ」と口には出さずに回答する。

機春秋を経て50代になったが何も成しえず離婚して低所得に生きているわたしを年老いた親はまだ「できる子」だと言ってほめるのだ。いったいいつできる子なんだろうね。

だけどもし親にdegrade=価値をおとしめられながら育っていたならどうなっていただろう。子供をdegradeしてはいけないのは常識だがそれを平気でやる大人がいて結局世の中には親に毎日degradeされながら生きている子供がごまんといる。

アイルランドの田舎、80年代初頭の設定。育児放棄な親に育てられた姉妹の一人が母親の妊娠を期に酪農を営む親戚に預けられる。そこで少女ははじめて人の愛情にふれるという話。

父親は飲んだくれで口からは嫌味か難癖か苦情しかでてこない。母親は辟易し厭世しながら台所でひとりで泣いているような受動タイプ、子沢山で家は貧困に支配されている。

コットはタイトル通りの静かな少女。意思をうしなったように何もしゃべらない。姉妹の中でも学校でも浮いた存在だった。
彼女が暫定里子として行った先は初老の夫婦がふたりで暮らしている。里母は慈愛に満ちコットを優しく迎え入れる。おねしょも叱らず、毎朝髪を梳き、新しい洋服を買ってあげる。

公民権運動の時代、南部を訪れた北部の白人が集落にいる黒人に声をかけると誰もがみな徹底してへりくだり、まともな会話にならなかったという逸話が残っている。白人の奴隷としてこき使われてきた黒人が、突如、君の身分はわたしと同じになったんだと白人に言われてもそれを実感できず、気分を害する態度をとれば何をされるかわからない──と警戒するのは無理からぬことだ。

ネグレクトの親から愛情豊かな親にあずけられたコットもそれと似たような状態だった。
人から優しくされたことのないコットの生硬が次第にほぐれ、自我が解放されていく様子が綴られる。
酪農家の父親は厳しいところもあるが恩愛があり、コットの寡黙に美点を見いだしてそれを褒め、またポストの郵便物をとってくる使い走りを日課に課す。コットはだんだんそれに夢中になる。息をきらせて取ってくると里父はそれを「前回のタイムを上回った!風のように速かったぞ」と言ってほめるのだ。

初めて人心地に触れたコットはすでに実家に戻りたくはないが、やがて時がきて引き戻される。コットは送ってきたふたりを──速く走ればどうにかなるかのように──走って追いかけ、里父の胸に飛び込んで「父さん」と言う。

どうにもならなくて胸がかきむしられた。

imdb7.7、RottenTomatoes97%と93%。

RottenTomatoesのコンセンサスは「脚本家/監督Colm Bairéadの驚くべきデビュー作である『クワイエット・ガール』は、小さな物語が大きな感動を残すことができるということを、見かけによらずシンプルに思い出させてくれる」というものであり、アカデミー国際長編映画賞(旧外国語映画賞)へのノミネートをはじめ多数の賞をとった。

Colm Bairéadの来歴によるとほとんどドキュメンタリーかテレビの仕事でこれが初長編映画。
映画ではアイルランド語が使われ、wikiによると『アイルランド語映画のオープニング週末興行収入記録を塗り替え、アイルランド語映画史上最高の興行収入を記録した。』とのこと。

英題The Quiet Girl、原題(An Cailín Ciúin)はその「静かな少女」をCatherine Clinchという映画初出演の少女が演じている。
オーディションするためにアイルランド語学校でその公募をしたそうだがプロデューサーたちはリールを見た途端すぐにこの子だと判断したという。
端正だが表情を制限されたような屈託があり主題にぴったりの子だった。

邦題「コット、はじまりの夏」には齟齬がある。どちらかと言えば夏ははじまらない。「コット、はじまりの夏」と言われたらひと夏の体験のような甘酸っぱさのある話を想像するが子供の生活環境を冷徹に描いた話と言える。