
1.0
2000年に芥川賞を受賞した松浦寿輝の原作をもとに、その世界観を踏襲しつつ、舞台を斜陽のピンク映画界に置き換えて描かれている、とのこと。
原作は読んでいないが、映画について思ったことを述べたい。なお、憶測や思い込み、嫌バイアスが混じっている。
主人公栩谷(綾野剛)はピンク映画監督で、荒井晴彦監督の来歴および、日本映画界そのものの来歴から生まれた亡霊、あるいは化石のような存在といえる。
AVが台頭し、にっかつロマンポルノのようなドラマ仕立てのピンク映画が売れなくなる過渡期。
時代の変化のなかで没落していく自分たちの仕事環境を、哀感たっぷりに嘆きつつ、青臭く低回しながら話が進んでいく。
つきあっていた女祥子(さとうほなみ)が同僚のピンク映画監督桑山(吉岡陸雄)と心中による水死体として発見される──ところから映画が始まる。
その通夜へ訪れた栩谷は、祥子の両親から門前払いされるのだが、自分の身分を明かす台詞に、
「映画やってました」
というのがあった。おそらくこれは監督の言いたい台詞であったろうと思う。
しかしはたしてかれは映画をやっていただろうか、とわたしは思う。映画は一般の人々を感動させたり泣かせたり笑わせたりするものであって、あなたは「一部の人間にわかればいい」映画をつくっていたにすぎない。
この年(2023年)旬報や芸術などの佐欲メディアで絶賛された「花腐し」とは対照的に、全米を湧かせアカデミー賞までとった「ゴジラ-1.0」は日本の批評家たちから無視された。ただし山崎貴が、
「映画やってました」
と言うなら、わかる。
そういうところだ。
つまり映画「花腐し」は化石が作って化石メディアが褒めて日本アカデミー賞が顔を引きつらせながら賞をあげる古色蒼然たるしかし代表的な日本映画だったといえる。
撮影は白黒とカラーを織り交ぜている。内容はにっかつロマンポルノそのもの。
派手な性交シーンが再三でてくるが、わたしたちがそこに感じるのは、ただ「見えないようにしていることのぎこちなさ」だけであって、他の感慨はない。監督が興味や執心をもって描いているであろう性交シーンに、心も他のところも動かされない。いったいセックスがなんだというのだろう。なにが面白いのですか?
栩谷は自分が身を置いているピンク映画産業が、次第に時代に取り残されていくことにデカダンスを気取ってみせるが、あなたはたんに「一部の人間にわかればいい」映画をつくっているだけの独善的人間に過ぎない。
ところが登場人物はまるでヴィスコンティの没落する貴族のようにその事態に深刻に憂慮する様子を見せる。
ただ日ごと、タバコ吸って、酒飲んで、脚本書いてるだけなのにもかかわらず、である。
そもそもピンク映画監督は、タダで裸が見られる、あるいは女優とやれるかも、という下心から映画界へ迷い込んだ輩なのであって、日本映画の重鎮にはそういう人たちが多数いる、という事実混じりの仮説をわたしは信じている。そんな輩が、勝手に能書きを垂れ、勝手に男本位の話を書いて、勝手に女を虐げて、勝手に哀愁をまとってみせているだけなのにもかかわらず、な・に・が・え・い・が・や・っ・て・ま・す・だ・よ・ふ・ざ・け・ん・な、とわたしは思った。
当然、栩谷が言わなければいけなかったのは「ポルノ映画をつくっています」だったはずだろう。
ちなみに、2011年以降の日本映画にしばしば出てくる東日本大震災の関連台詞も出てくるが、震災のキーワードは、もし関連がないのであれば、あたまの悪い脚本が使う都合のいいエクスキューズでしかない。
とはいえ、お抱えメディアがついて、買う人がいて、おまんまが食えて、なんら問題はない。
ただ、一般の観衆としてはどうみるのか。
2020年代に、ネットフリックスにある映画としてはどうなのか。……。
栩谷「自分の性欲を恥じていただろう?だから勃たないんだよ。俺は若い頃、好きだからセックスをするのか、セックスをしたいから好きなのかわからなかった。『若いころの恋愛は発情にすぎない』って、富岡多恵子が言ってたのを読んで、ああそうだったのかって思ったよ」
伊関(柄本佑)「発情してたのに勃たないんじゃ、それこそ恥ずかしい」
栩谷「セックスに愛は要らないんだよ。愛があると遠慮しちゃうだろう?正常位しかできない。だから愛はセックスに邪魔なんだよ」
伊関「そうか」
栩谷「それで、できたの?」
伊関「目をつぶったんだ」
(ベッドシーン)上半身裸のさとうほなみの上で挿入しようとしている柄本佑
祥子「もうちょい下」
伊関「下、下、んんっ」
祥子「あっ」
伊関「はあ入った入った」
祥子「もっと奥まで入れて」
伊関「痛くないの?」
祥子「痛いけど、伊関くんともっとつながりたいから、ああっ」
伊関「あっ、ちょっと待って、やばい。奥やばい。だめだ。ちょっとまって……」「はあ。すぐいっちゃった、ごめん」
祥子「だいじょうぶ」
このほか騎乗位や後背位、後半ではふたりの女と酔った伊関がやっていて半勃ちだったのをアナルディルドを挿入したら元気になるというシーンが、相当な尺でとってあった。これは言うまでもなく監督兼脚本の荒井晴彦氏が、半勃起だった男の肛門にアナルディルドを入れたらシャキッとした、というシーンが重要である──と考えたからに他ならない。
百歩譲って、それを作家性だと認めたとしても、問題は、そんな描写を見たいと思うかである。これらの四畳半襖の下張、思い出横丁の酔客の屁みたいな昭和臭ぷんぷん描写にあなたは感興できるか、という話である。
わたしにはムリだったので1.5倍速にして見た。とうてい耐えられなかった。ちなみに鍋を食べているシーンがあるが、も・の・す・ご・く、まずそうだった。いい鍋だったのに、そしてただ鍋を食べているだけなのに見ているのが苦痛だった。
日本映画耐性を測る映画だと思います。「まあまあ」や「意外とよかった」ならば耐性ありだと思います。