津次郎

映画の感想+ブログ

想像のガドットは甘かったが、映画のガドットは硬かった ザ・ランナー (2026年製作の映画)

2.0

ガル・ガドットが走っている画像からwedgieなんかを期待して見た。
もちろん、そんなものはなかった。

ガドットはハガネのように鍛えられていて、無駄のない健康美だった。どのシークエンスでも性は入念に除去され、その身体は女性スターというより、ひたすら走るための運動体として撮られていた。
足も速く、次々と難題を乗り越えていく様は、さながらコスチュームを着ていないワンダーウーマンだった。

映画は、糖尿病の息子をさらわれた母親が、犯人の要求に従いながら真相へ向かってロンドンを駆け抜けるサスペンスドラマである。
わが子のために身を挺する母親の悲壮感を出しながら、その都度ミッションの制限時間を掲げ、緊迫感を演出してみせる。

ただ、映画はどっちらけだった。
息子の命がかかっているはずなのに、事態の重大さに反比例して、こちらはのんきに茶々を入れながら見ていられた。

しかしガドットさんは40代にもかかわらず、よく走った。
18歳から2年間イスラエル国防軍に所属していたというが、すらりとした体躯が疾走する姿には天資のものを感じた。
青いランニングトップ、黒いランニングレギンス、赤いランニングシューズ。揺れるポニーテールまでばっちり絵になっている。

とはいえ、彼女は息子を助けるためとはいえ、人様のスマホを盗み、警察や公衆に迷惑をかけまくった。賛否の「否」の中心は、そこだったのではなかろうか。

ガドットはイスラエル支持を公言しており、現実の撮影現場でも妨害に遭っている。
2025年にはロンドンで「The Runner」の撮影を妨害したとして、親パレスチナ派の抗議者が逮捕された。

映画のなかでも妨害され、現実の撮影でも妨害されたわけだ。

ただ、それが映画の緊迫感やクオリティに良い影響を与えることはなかった。
批評家の評判も芳しくなく、(元ローリングストーン誌の映画評論家)ピーター・トラヴァースなどは、一緒に見ようと誘われても「絶対パス」と断れ、とまで評している。

観光地などで、レギンスを穿いた外国人を見かけることがある。
お尻の形がそのまま見えるようなやつである。
日本では腰回りを隠す人も多いが、欧米の観光客は気にせずそのまま穿いている人をよく見かける。

走るガドットの画像を見たとき、それを期待して見た。
冒頭で言ったとおり、そんなものはなかった。

考えてみれば、マリリン・モンローにしてもシドニー・スウィーニーにしても、われわれが抱いている「性的なスター」というイメージほど、いつも映画の中で露骨な格好をしているわけではない。
ネットを開いたときに出てくるバナー広告のほうが、よほど煽情的だったりする。

スクリーンのなかの人物は、われわれの妄想を仲介することで、性的な魅力が補完されるのだ。想像のガドットは甘かったが、映画のガドットは硬かった。

IMDb4.1、RottenTomatoes9%と35%。

怪物はどんな顔をしているか ガール・ウィズ・ニードル (2024年製作の映画)

3.6

昔ポッパーズMTVというPVの紹介番組があった。ピーター・バラカンが解説者で、ベストヒットUSAの玄人版といった感じ。わたしは毎週それを見るのが楽しみだったが、何かと後回しにされる番組だったので、眠気との戦いでもあった。
ポッパーズMTVを御覧になっていた方ならわかると思うが、ゴドレイ&クレームと言えば、当時もっとも先鋭的なPVディレクターだった。10ccを脱退した二人によるデュオだったが、一風変わったPVづくりが得意で、やがて人の曲のPV製作も手がけるようになった。音楽的にも、個人的には10ccよりも好きだった。

ゴドレイ&クレームに「クライ」という曲がある。PVも彼らが手がけた。
モノクロ画面で、次々に違う人の顔が重なっていく様子を撮っている。前の人物の残像を残しつつ変わるので、重なって見える。それだけのシンプルなPVだが、当時は面白いPVだと言って紹介された、と記憶している。そしてなるほど面白いなと思って見た、とも記憶している。
今見ると、なんでもなかった。

ガール・ウィズ・ニードルの冒頭に、まさに「クライ」のような映像が使われていた。
ただし、クライよりもずっといびつで、グロテスクに撮ってある。
この歪む顔のモンタージュは、カロリーネの旦那であるピーターの顔面損傷を予告し、また人の心の中にいる「怪物」についての予兆にもなっている。

苦しんで産んだ子供を、どうするのかわからないような人に、預けざるを得ない貧しさや風潮が映画を暗くしているのは間違いない。
ただ、この映画の暗さをさらに深くしているのは、ピーターの顔面損傷と発作を通してしか見えてこない、戦争の存在だと思う。

第一次世界大戦の前線とはどんなところだったのか。
ピーター・ジャクソンが監督したThey Shall Not Grow Old(2018)というドキュメンタリーがある。
『スタッフは200人の退役軍人の600時間のインタビューと100時間のフィルム映像を精査して映画を作り上げた。(Wikipediaより)』
舞台は1917にも描かれていた塹壕。
泥まみれ。食べるのも排泄するのも眠るのも塹壕だ。
大量発生するシラミやネズミ、腐敗した水、足が腐る「塹壕足」。
ときどき毒ガスまで撒かれる。
突撃となれば、機関銃と砲火の中を敵陣まで走らされる。
そんなところにいたら三日以内に発狂する自信がわたしにはある。

顔面を損傷し、サーカスの見世物になったピーターは、おぞましさの誇張を目的とした人物ではない。当時は悲惨な戦場を生き延びた傷痍軍人が多数存在し、とりわけ補綴で顔を覆う者をフランスでは gueules cassées(壊れた顔)と呼んだそうだ。

すなわち、顔をえぐられ、ときどき前触れもなく赤子のように泣き叫ぶピーターに、いったい彼は何を経験してきたのだろうと思いを馳せることによって、映画は陰鬱さを増している。
しかし、映画が描く「怪物」はピーターではなかった。表向きは里親あっせんをしていたダグマーのほうが、怪物の名にふさわしい。
何人もの子を手にかけたあげく、法廷では、自分は社会ができないことを代わりにやった、表彰されてもいいくらいだ、とまで開きなおる。
だが、その開きなおりが単なる狂人の屁理屈には聞こえない。そう言わせるだけの社会と時代があり、Trine Dyrholmもまた、それを本気で信じているような顔をしていた。
カロリーネが一時ピーターを捨て、ダグマーを信じたことにも、無理はないと思えた。

しかし最後はピーターと和解し、エレナを養子に迎えた。人の中にも社会の中にも怪物はいる。それでも最後に、大切な人を守る側へ戻ったのは嬉しかった。
社会問題を上質なホラーの空気で包んだ、社会派のRobert Eggersといった感じ。
カロリーネ役のVic Carmen Sonneは、とくに眠そうな三白眼がよかった。あの虚ろな目だけで、この世界に半分見切りをつけている女に見えた。
IMDb7.5、RottenTomatoes93%と84%。

距離と時間と感動の関係 ロングウォーク (2025年製作の映画)

3.2

募金集めのテレビ番組で、著名人が長い距離を走るという企画がある。昔からなぜ走るのか理由が知りたかった。およその理由はわかる。おそらく、長い距離を走るのはたいへんなので、汗まみれの走者を中継することで視聴者が「がんばれ」という意識になって、募金しようという気持ちにつながる、ということなのだろう。感動を演出して、財布のひもを緩ませる、と言ってもいい。

映画ロングウォークは、言ってみれば募金集めテレビ番組でおこなわれるチャリティーマラソンの映画版といえる。
例の番組の第一回目は1978年で、その翌年1979年にスティーブン・キングがロングウォークを発表した。しかしマラソンが始まったのは1992年の間寛平からだそうだ。残念。
スティーブン・キングが日本のチャリティーマラソンからロングウォークを思いついたとしたら、どんなに楽しかっただろう。

1970年代を思わせるものの、どこか時代の曖昧なアメリカ。
ロングウォークはそんなアメリカを舞台とした、国民を鼓舞し、生産性を高めるという名目で毎年行われる、国家主催の競歩コンテストである。
「毎年、競歩の後は生産性が急上昇だ」とレース前にルーク・スカイウォーカーが言って参加者を激励するんだ。

トレーラーを見たとき「歩くのをやめたら、殺られるんだな」がわかり、その印象が、映画を見た後もあまり変わらなかった。
ただし、突飛な設定だから、最初は面白い。
冒頭、女子のエントリーはいないんだなと思った。が、道々そのへんで排泄しなければならない競技なので、映画的にも女子版はいろいろ面倒そうだ。そこは察しておこう。
参加者はバラエティを揃え、主人公といい奴といやな奴、無口な奴、胸糞事案や感動事案を折り込みながら、歩き続ける。ジョジョ・ラビットもいたけれど真っ先にやられちまった。
問題はワンイシューすぎること。ルールを説明した時点で、何をする映画なのか、全体像をほぼ理解してしまうことだ。大きな展開も謎もない。ただ歩き、誰かが死に、人数が減っていく。それを108分持たせなければならない。だからこそ、キングがこれだけで長編を書いてしまったことの異常さもわかる。

英語のウィキに、『1988年、ジョージ・A・ロメロが映画化の監督候補に挙がったが、実現には至らなかった。2007年までに、フランク・ダラボンが小説の映画化権を獲得した。』と、あった。
だから、ひょっとしたらずっと前に作られていたかもしれない映画だった。映画化する側からすれば「これでどうやって長編映画一本を持たせるんだ」という難題もあったんじゃなかろうか。

出版こそ1979年だが、キングはこれを大学一年だった1966年頃、書き始めたそうだ。彼が最初に完成させた長編小説とされている。
着想の一つには、1960年代初頭にアメリカで流行した50マイル・ハイクがあったらしく、自身も20マイルで脱落した経験があったそうだ。
登場する青年たちは、ときとして、『スタンド・バイ・ミー』の少年たちの友情や、歩きながら少しずつ互いを知っていく旅の感触が重なるところがあった。
撮影は過酷で、主役のクーパー・ホフマンとデヴィッド・ジョンソンは、それぞれ累計約560キロを歩いたという。

自分の視聴範囲内でいちばん似ているのは『ひとりぼっちの青春』で、ホレス・マッコイが1935年に書いた小説を、1969年にシドニー・ポラックが映画化した作品である。
賞金のかかったダンス・マラソン大会で、それは1時間50分踊って10分休憩し、昼夜ぶっ通しで踊り続け、最後に残った者に賞金が与えられる、というもの。
まだ、映画慣れしていない昔、疲弊してぼろぼろになっていく参加者、それを見て狂喜している観客を見るのは恐ろしかった。
トラウマチックな体験といっていい。

歩けば歩くほど人が死に、悲惨さと悲愴感が増す。そして悲惨になるほど、映画はそこに友情や感動を盛ってくる。見終わって、結局またチャリティーマラソンを思い出した。
「ツー」は女子編にしてポール・バーホーベンに撮らせたい。国家のプロパガンダと流血とエロティシズムを全部盛りにすれば、国民の生産性はもっと上がるだろう。ロボコップより当たるんじゃなかろうか。

偽物を信じ、本物を知らなかった男 緋色の街/スカーレット・ストリート (1945年製作の映画)

4.0

老齢の男性が、若い女性に熱を上げる。
その現象や末路を、ニュースなどで見ることがある。

男性が若い女性を好きなのはわかる。女性だって若い男性のほうが好きなことはあるし、若い人だって基本的には若い人のほうが好きだろう。

ただ、このバランスはときどき財力や魂胆によって曖昧になる。裕福な男性は金の力で若い愛人を持つことができるし、夜職嬢は本心を隠して、男性から好意や金を引き出す。

『緋色の街』が作られた1940年代にも、金のある年長男性と若い女性という組み合わせは、少なくとも映画の中では成功者の記号として違和感なく置かれている。

じっさい本作の冒頭、雇い主が若い女を車に乗せて去るのを見た主人公は、「若い娘に愛されるとはどんな気分だろう」と、これから始まる物語を匂わせる言葉を漏らす。

現在、年齢差のある恋愛そのものは、双方が成人で自由に同意しているなら、それだけで非難されるものではない。少なくとも表向きは。
内心は違う。
年の差のある男女には人々の興味が集まる。
そして男は、ときどき純愛を信じる。
どんだけバカなんだ男よ、とも思う。鏡を見ろ。いや、それ以上に相手を見ろ。自分に都合のいいところだけを見るな。

この映画には、女が男を騙していたことがバレたときの、定番ともいえる場面がある。
クリスは、キティが自分と結婚してくれるだろうと思い込んで彼女に会いに行く。しかし、そこでジョニーとキティが抱き合っているのを目にし、自分が騙されていたことを知る。
それでもクリスは諦めきれず、キティに結婚を申し込む。
キティはクリスを年老いて醜いと嘲り、笑う。
激怒したクリスは彼女を刺殺する。

クリスを演じるのはエドワード・G・ロビンソン。キティはジョーン・ベネット。
言わば「意識高い系のジェームズ・キャグニー」のような位置にいて、ギャングや強面の男で鳴らしたロビンソンが、ここでは気弱で世間知らずの小男を演じている。
ジョーン・ベネットは、ファム・ファタールとして脂が乗っていた時期だった。

映画はけっこう複雑なストーリーを持っている。
要約すると――
若い女に恋した孤独な中年男が、金も才能も利用された末に彼女を殺してしまう。しかし別の男がその罪で処刑され、殺された女は男の絵によって天才画家として名声を残す。唯一真実を知る男だけが法の裁きを免れながら、良心と狂気によって生涯罰せられ続ける。

そんな倒錯した犯罪悲劇である。
恐妻家で、真面目だけが取り柄の出納係クリス・クロス。ささやかな趣味は絵を描くことだった。
『緋色の街』にあるすべての間違いのなかで、たったひとつ真正だったものがある。
絵である。

クリスの画力だけは、本物だった。
映画に登場する絵は、当時ハリウッドで活動していた画家John Deckerが描いたものだという。
錯乱したとはいえ、真犯人であるクリスは捕まらない。ジョニーは冤罪のまま処刑される。
その不条理と非倫理性が衝撃的な『緋色の街』だが、私は、自分の持っている本当の才能を生かすことも、本人として褒められることもなかった、寂しい男の話でもあると思った。
ラストでは、クリスの描いたキティの肖像画が、裕福な夫人に一万ドルで買われる。
かつてなら狂喜したであろうクリスは、そのそばを通り過ぎていく。
気づいているのか、いないのかさえ、よくわからない。
誰も彼のことを知らない。

男は、たとえ老齢になっても、馬鹿でもいいと思う。
ただ一つ、己のことさえ解っているならば。
クリスは、自分について何も解っていなかった。
自分がキティに愛されていないことも、自分が彼女にとってどんな男なのかも解らなかった。
その一方で、自分に絵の才能があることまで解っていなかった。

毎日ニュースやSNSを見ていると、自分が何者なのか自覚していない人を、ずいぶん見せられている気がする。
男は一度くらい、好きな女が自分のものにはならないという絶望を味わったほうがいいのかもしれない。
一般的に考えれば、「僕は死にません、あなたが好きだから僕は死にません」と言ってトラックの前に飛び出せば、轢かれて死ぬだけだ。
それ以外の結果は幻影である。
男が何をするためにこの世に生まれてきたのかといえば、案外、女に好かれない寂しさに耐えるためなんじゃなかろうか。

IMDb 7.7、Rotten Tomatoesは批評家100%、観客87%。

 

ドライビング・ミス・デイジーにホラーを足すな TOKYOタクシー (2025年製作の映画)

3.0

老女の身の上話を、タクシー運転手が聞かされるという話である。

運転手の宇佐美は聞き役だが、映画を見ているこちらも、ほとんど同じ立場に置かれる。少し距離をとって眺める場所がなく、老女・高野すみれ(倍賞千恵子)の人生を、観客も一緒になって聞かされる。

語られるのは戦争と戦後、そして当時の女性が置かれていた境遇である。
「あのころ、日本じゃ夫が妻や子供を殴るのは当たり前だったの」という台詞もあった。

すみれの来歴は壮絶であり、気の毒でもある。
ただ、『パリタクシー』のリーヌ・ルノーには、鉄火肌で乾いたところがあった。壮絶な過去を語っても、本人まで「不憫な老女」に見えすぎない。そのサバサバ値が、むしろ彼女の不幸を浮き彫りにしていたように思う。

一方、倍賞千恵子は、たとえば田中絹代のように、「不憫に見えること」を得意とする華奢な女優だと思う。

山田洋次監督の『遙かなる山の呼び声』(1980)で、北海道で女手ひとつで酪農を営む未亡人・民子(倍賞千恵子)を、従弟夫婦が訪ねる場面がある。
夫婦役は武田鉄矢と木ノ葉のこ。博多から新婚旅行がてら車でやって来たのだった。
帰りの車の中で、武田鉄矢が涙をこぼしながら、ぽつりと言う。

「なんか、可哀想なんだよな、あの姉さん」

そう、倍賞千恵子は「なんか可哀想」なのだ。
可哀想に見えてしまう女性に、さらに不幸な身の上を延々と語らせたら、聞かされるほうは疲れるでしょうよ、という話である。

すみれは在日二世の男性と親しくなり、妊娠する。しかし彼は北へ旅立ってしまい、その後、身体目当てに近づいてきた男に迫られて結婚する。
このあたりの善悪の描き分けも、やや図式的に感じた。

ところで原作の『パリタクシー』には、同調できない過激描写があった。
マドレーヌは暴力的な夫の下半身をガスバーナーで焼くのだ。
『TOKYOタクシー』も原作の強烈さを引き継いで、煮えたぎった油を下半身に浴びせる、という復讐をさせた。
個人的には、股間をガスバーナーで焼いたり、煮え煮えの油をかけたりする場面は、ホラー映画でもあまり見た記憶がない。

つまり『パリタクシー』と『TOKYOタクシー』の双方に言えるのは、ドライビング・ミス・デイジーにホラー描写を付け加えてはいけない、ということではなかろうか。
気難しい老女を乗せ、車中で話をするうちに少しずつ打ち解けていく。
それだけで十分に成立する王道の題材なのに、なんで股間を焼いたり、揚げたりするんだよ。という話。

すみれと宇佐美の間に、やや恋愛めいた気配が漂ってくるのも、好きではなかった。
ここまで、偶然出会った老女と運転手という他人同士が、一日のあいだだけ少し親密になる話として見ていたので、男女の気配まで加えられたことで、すみれさんの人物像が矮小化して見えた。
倍賞千恵子さんが悪いわけではないが、この役ではどうしても彼女本来の「いじましさ」や「不憫さ」が前に出る。
わたしはそれが、この映画では逆効果になっていたと思う。少なくとも、すみれ役についてはミスキャストに感じた。

笹野高史は、いつもながら上手だった。
妻役の優香は、かなりベタな芝居をする。演出としてそう求められているのだろうが、ときどき新喜劇のように見えるほどベタだった。ただし話が全体に陰鬱なので、そのベタさが逆に清涼感になっていた。

山田洋次、倍賞千恵子、木村拓哉という名前だからこそ、この映画のヌルヌルしたいじましさも味として受け入れられているところはあると思う。
が、わたしには、不幸も、台詞も、感動させようとする圧も、少し盛りすぎだった。話にも台詞にも、かなり疲れた。

カン・ドンウォンの困った顔は、20年前と変わらない ワイルド・シング (2025年製作の映画)

2.9

カン・ドンウォンをはじめて見たのは、「彼女を信じないでください」という2004年のコメディ映画だった。
仮出所中の女詐欺師をキム・ハヌルが演じていた。

その後、日本では同名の女子プロゴルファー、キム・ハヌルの名をよく見かけるようになった。
一方、カン・ドンウォンはあの頃から現在まで、ほとんど途切れることなく第一線にいる。

2000年代は、韓国映画がめきめき台頭してきた時期だった。
イ・チャンドン、ポン・ジュノ、パク・チャヌク、キム・ギドク、キム・ジウン、ナ・ホンジン……。

重い韓国映画に魅了されたが、韓国映画の底力を感じたのは、そうした作品とは対照的なコメディや娯楽映画まで充実していたからでもあった。

猟奇的な彼女、子猫をお願い、花嫁はギャングスター、僕の彼女を紹介します、誰にでも秘密はある、まわし蹴り、サッド・ムービー、カンナさん大成功です!、色即是空……。

「彼女を信じないでください」もそんな映画のひとつで、仮出所中の詐欺師ヨンジュと、田舎の純朴な青年ヒチョルが繰り広げるロマンティックコメディだった。
「ミスター唐辛子コンテスト」のヨンジャのコーラスを、いまだに覚えている。

野暮ったくて、いい映画だった。

あれから20年以上経ったが、カン・ドンウォンの印象はさほど変わっていなかった。

「ワイルド・シング」のトライアングルは、45歳のカン・ドンウォン、42歳のオム・テグ、31歳のパク・ジヒョンが演じる、若き日の男女混成ダンスグループである。
オ・ジョンセは49歳にして甘いマスクのバラード歌手、52歳のシン・ハギュンは無責任なプロデューサーを演じている。

ブレイクダンスが流行っていた2001年にはじまり、20年後の再結成をめぐって繰り広げられるドタバタ喜劇になっている。

出演者たちは撮影前に約5か月間、ダンスやラップなどの練習をしたそうで、カン・ドンウォンは難易度の高いヘッドスピンまで練習したという。
45歳で10代のダンサーを演じるのだから、大変な仕事である。

ただし身もふたもない言い方だが、ヘッドスピンというのは、やる側の大変さと見る側の感動があまり比例しない動きだとは思う。

それぞれの若々しさと役作りには感心したが、率直に言って、映画そのものに笑えるところは少なかった。悪徳プロデューサーのヨング(シン・ハギュン)を追いかけるドタバタに多くの時間が費やされ、「ラブソングができるまで」(2007)のような、昔の人気者ならではの哀愁は感じられなかった。

ひるがえって、「彼女を信じないでください」はいい映画だったと思う。

映画史に残る大傑作というわけではない。
しかし一度好きになった人が、いつまでも妙に好きでいる。
「彼女を信じないでください」は、多くの映画ファンにとって「いとこのビニー」的な作品になっているのではなかろうか。

結局、「ワイルド・シング」をいちばん支えているのも、カン・ドンウォンの困った顔だった。
映画デビュー作「彼女を信じないでください」で純朴な青年を演じていた頃と、驚くほど変わっていない。

笑いをさらっていくのは名バイプレーヤーのオ・ジョンセである。
声はハニーバターのように甘いのに、承認欲と俗臭にまみれたソンゴンは嵌まり役だった。

「韓国バラードの貴公子」という外見だけでもおかしい。
文句なしのシーンスティーラーだった。

 

洞窟とサメと据わった目 悪魔の口 (2026年製作の映画)

3.0

外国映画はサメ好きですね。
日本映画も、気取ったへんな映画を作るくらいなら、もっとサメを出せばいいのにと思います。
この映画はThe Descent(2005)風の洞窟にサメを足した感じです。
トレーラーを見たあとと映画を見たあとの印象はあまり変わりません。

実質的な主役はキャスリン・ニュートンで、ラナ・コンドルがその次です。
サラ(ニュートン)は、おとなしくて従順ないい子の役です。真っ白な肌と、強靱なウォータープルーフ顔が見ものです。
マックス(コンドル)は騒動の元凶で、めんどくさい兼にぎやかし兼おっぱいという全部入り女役です。

舞台はタイ。大学卒業前の思い出づくりの旅行で、洞窟ツアーに参加します。
直前の嵐で洞窟内の環境が変わり、海洋生物と一緒に入り込んだサメが暴れまわるという設定です。

冒頭ではサラとマックスの関係に含みを持たせますが、ふたりの確執は単純です。
弱く見えていた人が危機には強く、強く見えていた人が危機には弱いというパニックスリラーの王道が踏襲されます。
サラ以外の登場人物はフラグを立てながら、ひとりずつサメの胃に収まります。
とはいえ、マックス役ラナ・コンドルは主役級スターなので生き延びるような気がしていました。

ラストは洞窟の出口でサラが助かった嬉しさに雄たけびをあげます。ただ、暗い洞窟から異様に白いサラが飛び出して雄たけびをあげるので、なぜか白人の勝利を祝う場面のようにも見えました。

映画はばかばかしくて楽しく、水中と洞窟の撮影もよかったです。ワドロウ監督によると、岩登り、潜水、水中での演技、息を止めての撮影、ワイヤーで引きずられる場面まで、すべて俳優本人がこなしたそうです。
ニュートンはよく泳ぎましたが、目は一度も泳ぎませんでした。

IMDb4.7、RottenTomatoes34%と18%。

「日本語お上手ですね」しか話すことがない

TikTokなどで、外国人に見える日本人が、「毎日のように誰かから『日本語がお上手ですね』と言われる」と話している動画を、よく見かけます。

外国人に見える人であっても、日本で生まれ育ち、日本語を母語としている人は大勢います。それにもかかわらず、なぜ外見だけで外国出身だと決めつけ、「日本語がお上手ですね」と声をかけるのでしょうか。

おそらく、この言葉は褒め言葉であると同時に、会話のきっかけとして使われています。しかし実際には、相手について何も知らない人が、とりあえず差し出す定型句になっていることも少なくありません。

「日本語がお上手ですね」と言われた相手が、「私は日本生まれの日本育ちです」と答えたら、そこで会話が止まってしまう人も多いでしょう。つまり、相手本人に関心があるというより、「外国人に見える人に話しかけてみたい」という気持ちが先に立っているのです。

同じ経験を語る動画を、私は繰り返し目にしました。多くの投稿者は、深刻な被害としてではなく、少し滑稽な日常の出来事として紹介しています。

しかし、私はそれほど無害な現象だとは思いません。外見だけで相手の出自や言語能力を決めつける行為だからです。善意から出た言葉であっても、何度も繰り返されれば、「あなたは日本人には見えない」と言われ続けるのと同じ負担になり得ます。

とくに、面識のない男性が女性に近づく口実として使う場合には、単なる褒め言葉ではなく、ナンパやつきまといの入口になることもあります。相手が会話を望んでいない様子なら、そこで引くべきです。

外国人に見える人に話しかけること自体が悪いわけではありません。ただ、外見を見ただけで「日本語がお上手ですね」と言うのは、そろそろやめたほうがよいのではないでしょうか。話しかけたいなら、その人を一人の人間として見て、普通の話題から始めればよいと思います。

 

不適切な映画に、適切な言葉を レイプ・オブ・アナ・フリッツ (2015年製作の映画)

3.0

https://bloodstreamtv.com/という配信サイトを見つけた。意識低い系のShudderって感じで、この『The Corpse of Anna Fritz』も、そのほかB級ホラーやエログロナンセンスがいっぱいある。しかも7日間1ドル(約170円)で試せるから、さっそく入って『The Corpse of Anna Fritz』を見た。

かつては感想文置き場だった映画レビューサイトにSNSの仕組みが加わった。
現代では、映画レビューサイトに限らず、人々がコメントを投稿する場所の多くがSNS化し、フォロワー数が可視化されるようになった。結果、フォロワーの離脱を恐れて人々は良識派を装いコメントも丸くなった。
そこで離脱を恐れるみなさんの代わりに、最高に不適切な映画『The Corpse of Anna Fritz』をレビューしておこうと思った次第。
この映画は屍姦を扱っている。ちなみにDeadgirl(2008)はゾンビ姦を扱っていて、The Woman(2011)は野人姦を扱っている。
日本には胸糞という言葉がありこうした映画は胸糞系と言われることがあるが、率直に言ってまったく胸糞にはならない。
Xにある動画を閲覧したり、あるいは胸糞漫画、たとえばみいちゃん~とかタコピー~とかちーちゃん~のほうが何倍も胸糞が悪い。
仮想で描かれる事態をじっさいにやったり、やろうと画策する人間は狂っている。しかしあなたはアダルトコンテンツの時間よ止まれやTime Stopを胸糞が悪いと言うだろうか。それは甘美でしかなく、であるならThe Corpse of Anna Fritzも蠱惑的と言うべきだ。ただし、それを公言するのはまずい。前述のとおり、投稿サイトがことごとくSNS化しているから。
意識のない女性に対して何かするなんて人間のやることじゃない、ということにしとかないとね。そのヨゴレを引き受けるレビューを置いておく、という話。

三人の不良仲間の一人パウは病院職員として働いており、その仕事のおかげで、病院の霊安室に運ばれてくる若い女性の遺体を目にする機会に恵まれていた。ある日、美しく魅力的な女優、アナ・フリッツの遺体が運ばれてくると、彼は衝撃を受け、思わず写真を撮って友人のイヴァンに送ってしまう。イヴァンはもう一人の友人ハビと共にアナの裸の遺体を見るために霊安室へと急行する。……。
三人のうち二人が遺体を相手に行為をおっぱじめ、イヴァンに続いてパウがやっているとき、アナが目を覚ます。彼女は状況を理解しながら、身体が動かない。不良どもは自分たちがしたことの発覚を恐れ、生き返ったアナをまた死なせる企てをする。それが動けないアナに聞こえていて、悲しみと恐怖が増していく。

科学的なことはいっさい描写されないが、カタレプシーのような状態だったのか、死亡したと誤認された女性と行為に及び、仲間割れをおこして霊安室から出られなくなるという話。アナを演じているのはAlba Ribasという人で、ストレッチャーをガチャガチャいわせながらやっているときに息を吹き返すシーンがハイライト。突如血色を帯び、リンバルリングのある青灰色の瞳が見開かれる。映画自体は不良たちの言い争いが浅く、強烈な題材を除けば、映画としての面白さはあまりない。

昔テレビで女囚映画の『チェーン・ヒート』が放映されたことがある。路線変更したリンダブレアが出てくるやつだ。荻昌弘が「先週放映したチェーンヒートではたいへん大きな反響をいただきました」というようなことを言ったのを覚えている。昔は、新聞のテレビ欄に『プライベイトレッスン』とか、イタリア映画の「体験」系とか、なにやら裸が出てきそうな題を見かけると、期待で胸が高鳴ったものである。
一般的に、男は、裸が出てくる映画が好きだ。それらは概して、現在よりも露悪的だった昔の作品のほうが好ましい。

スペインメディアの記事によると、『The Corpse of Anna Fritz』はフィリピンで爆発的な人気となり、FacebookやYouTube上の違法コピーを通じて、数日間で500万~700万人が視聴したと推計されたという。
当時のGoogle Trendsでは、フィリピンが「ネクロフィリア」の検索関心度で世界首位となっており、その関心度は2016年2月にピークを記録したという。
現地では『The Corpse of Anna Fritz』を題材にしたTシャツまで出回っていたそうだ。いったいどんなシチュエーションで着るんだろうね。
とはいえ日本だって『食人族』(日本公開は1983年)が当時社会現象になるほどの大ヒットを飛ばしたわけで人様のことをエログロナンセンスが好きでじぶんは高尚だとか思わないほうが無難かもよ。

キモいという言葉があるが、牽強付会だがThe Corpse of Anna Fritzよりも、先日見た『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』のほうが、じぶんには何倍もキモかった。
映画レビューサイトでは映画は点数にされてしまう。そして点数のなかに、わたしやあなたはいない。だからせめてレビューには適切な言葉を使ったほうがいいと思っている。
IMDbは5.9。Rotten Tomatoesは批評家支持率50%、観客支持率42%。

有名人だから許される自意識 今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は (2025年製作の映画)

1.0

作者は父親を亡くしており、その体験がこの話のベースにあるのは間違いないと思います。
受け手がそれを汲んであげることは人間として適切なリアクションだと思いますが、それを知る前に書いたレビューを置いておきます。

無名の新人がこれを書いた場合、自意識過剰に見えすぎて、おそらく出版までたどり着かなかったような気がする。
お笑い芸人としての知名度と実績があったからこそ、商業出版まで進んだのではなかろうか。
ちなみに坂元裕二氏や糸井重里氏の帯文が付いたそうだ。

これほどまでにナルシスティックな話は、作者が無名であれば、読むのをやめてしまうかもしれない。
しかし芸人が小説などを書いて出版するのは今やトレンドである。
又吉直樹、若林正恭、西野亮廣、松本人志、劇団ひとり、バカリズム……。芸人からの物書きのコースは定着していて、作品が受け入れられる余地が十分にある。
結果としてファンであれば世界観に馴染むであろうし、ファンではない読者にも、有名人の話題作だという先入観から、「このキモさが新しい」と好意的に解釈されるのではないか、と推察される。

じぶんにはムリだった。
台詞も会話も会話の間も。小西(萩原利久)の髪型も日傘もときどきおしゃれ感出してくるシークエンスや心象風景のようなシーンも、ぜんぶヤだった。しかも拷問のように長い。ほ・ん・と・う・に・長・い。ナ・ル・シ・ス・台・詞・が・え・ん・え・ん・と・続・く・の・に・長・す・ぎ・る。さっちゃん(伊東蒼)の独白シーンとか、霊前で小西が「サクラ」化するシーンとか、初恋クレイジー聞いて叫ぶところとか完全にホラーだった。何度シークバーを見たことだろう。
とにかく話も絵も状況もヌルヌル、じめじめ、べたべた、じとじと、うじうじ。萩原利久さんにうらみはないが小西をぶん殴りたかったし、レビューを書くために1.5倍速で見たが、それでも全身にじんましんが出てきそうだった。

小西のキャラクターはホンモノのぼっちではない。
多くの芸能人やインフルエンサーが、ぼっちを芸風やアピール手段として取り入れているが、それがいかにぼっちを皮相的に捉えただけであるか、ステハゲさんをご存じなら、まして自分自身がぼっちであるなら、わかるのではあるまいか。
小西は愚直さを装って桜田(河合優実)と親しくなる似非ぼっちであり、満席の学食で独りで立って飯を食ったり、独りで花見にきて「粉雪」を歌ったりはしない。
山根(黒崎煌代)という連れもいるし小西はちょいちょい自分を可哀想に見せる策略を使う。こんな器用な奴が孤独をきどってもらっては困る。

AIに、小西の日傘の意味を解釈させたところ、
一人でいる言い訳:「男にしては珍しく日傘をさす変な人」と思われることで、周囲から距離を置いてもらうため。
孤独の防御:大学生活に馴染めず冴えない毎日を送る中、自分を他人から遠ざけるバリアにしているため。
自意識の隠れ蓑:一人でいる気まずさやプレッシャーをごまかし、安心感を得るため。
という回答だった。

この映画については散々腐しているが、ジャルジャルのコントは、YouTubeを開けばたいてい表示されることもあって、ほとんど毎日見ている。気まずさをテーマに、際限もなく湧き出てくるアイデアで、どの動画でも手堅く楽しませてくれる。
そのネタを生みだしている方が、マジな小説を書くと、こうなってしまうというのは、わかるようなわからないような感じだった。
しかし一般人ならこんな都合のいいキャラクターや、都合のいいシチュエーションを書けないと思う。

これほどまでにナルシスなキャラクターや臭いシチュエーションを書けるのは、「人は自分のことをわかってくれる」という自信がある場合だと思う。これを書いた人は、間違いなく自分が有名人であることを知っている。
商業出版され、さらに映画化までされたのも、有名人ならではだと思った。

ただし、読者、視聴者にも問題があると思う。
つまり、作家になる前に、芸人になり人々から好かれることによって、書いたキャラクターの欠陥をも許容してもらえる、という作戦に、まんまと嵌まってしまうわたしたちにも問題がある、という話。
ごまめがはぎしりしているだけだが、バカリズムのドラマや又吉直樹の小説にも、似た構図を感じた記憶がある。
わたしとて好きな永野のつくった映画ならば肯定的に見てしまうのではないか、という気もする。

出版されるのは有名人の書いた本が売れるからであり、それはしょうがないが、読むにせよ見るにせよ、知名度や世評に引っ張られず、「あ、わたしはあれ、ぜんぜんだめでした」ということでもいいのではなかろうか。
「いっぱい泣ける僕」を正当化するエクスキューズだらけの恋愛物語で、喫茶店で注文しているだけのシーンでさえキモく、ジャルジャルアイランドならぬきもきもアイランドだった。

この映画は、観衆がその気持ちになっているかについて、完全に無頓着だ。「初恋クレイジー」を聞いて絶叫する気持ちになっているにちがいない、という希望的観測において、ラストシークエンスが置かれている。とても自意識過剰だと思った。そのあと小西は桜田の目の下のなめらかなシワを指でなぞりたいと、キモレベルマックスのことをぬかした挙句、さらにぐだぐだぐだぐだぐだと、たわごとを続けた。だいじょうぶかおまえら。
わたしがムリだった、というより、サンダンスのような観客が審査するタイプのコンペにぜひ輸出してほしい。外国の、作者のことを知らない視聴者がこの身もだえせんばかりの自意識過剰をどう評価するのか知りたい。

金髪の妻と、切り裂かれた夫 エリーゼ: シャドーズ・オブ・ウーマン (2026年製作の映画)

3.0

ブラジルにYOKIという食品メーカーがある。日本からブラジルへ移住した北野芳蔵という人物が1960年代に創業し、やがて日常食を幅広くあつかう国民的食品メーカーに成長した。現在は創業家の手を離れているが、ヨシゾウ・キタノの名から取ったYOKIというブランド名は残っている。穀類やキャッサバ粉などを扱い、ブラジルでは広く知られている食品メーカーだそうだ。

創業家の一族であるマルコス・キタノ・マツナガ氏が殺害された事件も、ブラジル人の間では語り草になっているそうで、この映画もそれを題材にしている。

主人公エリーゼはサンパウロで、エスコートサービスのサイトを通じて客を取る言わば売春婦をしていた。
マツナガ氏は妻帯者だったが、サイトを通じて出会ったエリーゼと逢瀬を重ね、やがて妻と別れてエリーゼと結婚した。
ふたりの結婚は、貧しいセックスワーカーが富裕な創業家の男性と結婚する、いわゆる「玉の輿」だった。

ただし日本人にとってはアジア人男性と金髪のブラジル人女性という見た目のコントラストのほうが強い。
日本人男性が欧米系の外見をした女性と交際する姿は珍しいので、貧富よりも、見た目のほうが印象的だった。

Caso Marcos Matsunagaで検索すると金髪女性の隣でニコニコ笑っている日本人男性の顔がいっぱい出てくる。
この図式はわたしたち日本人男性に複雑な感慨をもたらす。
金髪女性を嫁にしたいという願望と、金髪女性の隣でニヤニヤしてみっともない、という相反する感慨を同時に覚えるからだ。
むろん、あなたが純ジャパことライアン鈴木氏並みの男であるなら、そんな感慨とは無縁かもしれない。

わたしは純ジャパ並みの男ではなく、金もない。
もし金があったらサンパウロでエスコートサービスを試してみるかもしれない。
その結果エリーゼ役のLorena Comparatoのような女性が来たらニヤニヤしながら一緒に自撮りをするかもしれない。
この映画はそんなことばかり考えさせた。

エリーゼによれば、事件の発端はマツナガ氏の浮気をめぐる口論だった。しかし、夫を殺害し、遺体を切断して遺棄したため、当初は「裕福な夫を妻が無残に殺した猟奇事件」として受け止められた。

ところが2021年、Netflixで事件を扱ったドキュメンタリー『エリーゼ・マツナガ:ある犯罪の物語』が配信されると、
マツナガ氏は、
「殺害されたことには全面的に同情する。しかし、夫としては不誠実で、支配的・侮辱的だった可能性が高く、全面的に好感を持たれている人物ではない。」
と評価され、
一方エリーゼは、
「殺人と遺体切断を犯した責任は明白である。しかし、単なる金目当ての怪物ではなく、貧困、性的搾取、階級差、夫婦内の暴力や屈辱によって形成された人物でもある。」
と評価されて、
「事件から時間がたつにつれ、世間の関心や感情移入は、マツナガ氏よりエリーゼ側に集まりやすくなった傾向がある」と、AIが教えてくれた。

この映画でもエリーゼは悪く描かれていない。
マツナガ氏のほうは、日本のおっさん然とした外見に、不誠実な人物描写も重なって、いやな感じだった。
その見た目は、なぜかわたし自身を思わせた。
逆に主演女優のLorena Comparatoは魅力的で艶も肉感もあった。
結局のところ外見の良さが正義に見えてくる映画でもあったように思う。

2019年には、自白が量刑上考慮され、刑が軽減された。
2022年、約10年間服役したエリーゼ・マツナガは、刑務所外で生活できる処遇に移行し、その後サンパウロでアプリの運転手になったそうだ。

 

英雄を描けない国の戦争映画 ペリリュー ー楽園のゲルニカー (2025年製作の映画)

3.4

日本の戦争映画に足りないのはヒロイズムだと思う。
たとえば坂井三郎が敵機を面白いように撃ち落とす映画がエンタメとしてあってもいい。
しかし日本のメディアは佐欲が多数派だと思うので、そのような映画を作ることは難しい。人を殺す行為をヒロイックに描くなんて、不謹慎だと非難する人もいるだろう。
しかし英語圏にはヒロイックな戦争映画が多い。先祖が英雄的に戦ったことは、当時の銃後の人々や、未来を生きるわたしたちの希望や活力になる。
戦勝国がそうであるなら、敗戦国もしくは敗色が濃いならば、なおさら、そういったプロパガンダが必要であっただろう。
本作で主人公田丸に課せられた任務は、ぶざまに亡くなった兵士の最期を、英雄的に脚色して家族につたえる手紙を書くことだった。
いみじくも島田少尉はこう言った。
「そこが功績係の仕事だ。漫画というものは実際にはない物語を作るのだろう?(中略)内地の遺族にはそれが真実になる。」

山崎貴はヒロイックな戦争エンタメをつくってみせた。永遠の0やゴジラ-1.0などはヒットを飛ばしながらも佐欲批評家からは無視されたように思えた。
佐欲は戦う人に雄々しさを感じさせる演出を嫌う。
日本人に、日本を好きにならせてはならない──それがかれらの命題だとわたしは思っている。
佐欲が目を光らせているおかげで日本の戦争映画では「わたしたちはみんなバカでした」に終始することが多い。すくなくとも支配的傾向だと思う。
悪うございましたと自己批判し、部下をぶん殴ったり、無駄死にさせて、誰と、あるいは何と、戦っているのか解らない不条理へ話をもっていく。

アメリカと戦争をやった日本が無謀だったのは確かだと思う。
しかしみんながみんな、ばかだったのだろうか?
閣僚が机上の空論を現地におしつけ、上官は下級兵をぶんなぐり、兵隊は仲間割れし、追い詰められて自決したり玉砕したり、みんなして阿鼻叫喚のなかで殺し合いをやっていたと思いますか?
さまざまな側面がある。侵略したのも事実だが、国力を結集して、もがき苦しみながら白人支配から逃れようとした──という面もあったと思う。
何にもならなかった、無駄だった、とは思えない。

映画はフィクションだが、ストーリーや設定が慎重に考えられ、こういうことがあったとしても不思議はない、という見ばえになっている。
ただ日本の戦争映画らしく暗く、重く、ストレスは大きい。このストレスは、日本の戦争映画が否応なしに持ってしまう「反省しろ」の気配による。日本の戦争映画には日本人を良く描くことへの禁忌があるように思う。
逆に中韓の映画では日本兵は徹底して悪として描かれ、日本映画もそれに同調する態度が支配的に見える。

この映画は反戦映画になっていて、とくに文句はない。
ただし、フィクションであることは気になる。いけないとは思わないが、じっさいにはなかったことが描かれているのは、とりわけ戦争映画では気になる。
フィクションを描くばあい『日本人を悪く描くのであれば、じっさいにはなかったことでもいい、日本人を良く描くのなら、じっさいにはなかったことではだめ』という日本特有の配慮がはたらいているような気がする。佐欲や近隣諸国にたいする配慮であり、そうしないと商業ベースにのらない。
いい映画だと思うが「こう描くしかないんだろうね」という感想が、もっとも率直なところだった。

それがなぜ切実に見えるのか ノスタルジア (1983年製作の映画)

4.0

『Secrets of the Beehive』(1987)のアルバムジャケットについて、デヴィッド・シルヴィアンは、タルコフスキーの影響を問われて、その可能性を認めていた。
ライナーノートかなにかで読んだのだと思う。よく聴いたし、今も聴く。ソロ・デビューアルバムBrilliant Trees(1984)にはノスタルジアという曲もある。デヴィッド・シルヴィアンはタルコフスキーに傾倒していて、映画ノスタルジアには、Secrets of the Beehiveのアルバムジャケットのようなシーンがあった。

『ストーカー』(1979)にも出てくるイメージだが、さまざまなもの、たとえばコインとか、鳥の羽根とか、欠けたワイングラスとか、木の枝とか、レースの布とか、そういうものがうち捨てられたせせらぎをカメラがゆっくり俯瞰移動していく。それがきれいに見える。
たとえば、ゴミがうち捨てられた川をゆっくり俯瞰移動しても、もちろんタルコフスキーにはならない。そういうものを美しい絵画のように撮れるのはタルコフスキーだけではなかろうか。

作家ゴルチャコフ役のOleg Yankovskyは、頭髪に、羽根のように見える一房の白髪があり、鋭い目をしている。しかしそのまなざしには慈悲深さも感じられる。かれがその三白眼で、じっとこちらを見据えるシーンが、何度かある。そのシーンにはなんともいえない詩情がある。
ゴルチャコフの回顧や夢想がたびたび挿入される。冒頭からして、かれの故郷や家族をめぐる記憶のような光景からはじまる。モノクロで、辺りが霧に煙っていて、子供と婦人と白馬と犬がいて、こっちを見たり、犬が駆けたりしている。どこを切り取っても印象的なアルバムジャケットに使えそうだ。
詩人ドメニコ(エルランド・ヨセフソン)の家は、穴があき、水が漏れている。ストーカーの「ゾーン」のように水が流れ落ち、絶えず水音がする。廃墟なのに、そこはきれいだ。どのシーンにも、「タルコフスキーだけ」の唯一無二の見映えがある。

ノスタルジアとサクリファイスには晩年の印象もある。
すでにやりたいことの核はアンドレイ・ルブリョフと惑星ソラリスと鏡とストーカーでやってしまっている。だから黒澤明でいうところの夢や八月の狂詩曲が、ノスタルジアとサクリファイスにあたる。乱暴な対比をするつもりはないが、ノスタルジアとサクリファイスは、黄昏期の印象をもっている。ただし作風は穏やかではない。むしろかつては隠喩だった激情が表へ出ている。ノスタルジアにもサクリファイスにも強迫観念のような終末への危機感がある。ドメニコはガソリンをかけて焼身自殺をとげる。『サクリファイス』では、核戦争の勃発らしき事態が描かれる。
一見枯淡へ入ったように見える夢や八月の狂詩曲にも核への恐怖がある。すなわち黒澤明もタルコフスキーも常人の何倍も核戦争を意識し、恐怖している。
いくらか希望的なところもあった作風が、ノスタルジアやサクリファイスではペシミズムに染まっている。「人間に期待したけれど結局だめだった」という感じがある。
同時に、タルコフスキー自身が自分の体調をうかがいながら、「あと何本つくれるだろうか」と問いかけているような感じもある。
だからノスタルジアとサクリファイスには晩年の印象がある。
じっさいにタルコフスキーは『サクリファイス』を完成させた1986年の末に亡くなった。

ドメニコはかつて「もうすぐ世界の終末が訪れる」と信じ込み七年間にわたって家族を幽閉したため、周囲から狂人と呼ばれている。
ドメニコはアンドレイにベートーヴェンの第九を聴かせ、「ろうそくに火を灯し、広場の温泉を渡りきることが出来たら、世界は救済される」と言う。「君がやってくれ」と託されたアンドレイはろうそくを受け取り、自分が代わりにそれを行うと約束する。
ドメニコはローマの広場で人々に救済を訴え、演説を終えると頭からガソリンをかぶり大音量で第九を流しながら焼身自殺を遂げる。
アンドレイは、持病である心臓病の薬を飲み、ドメニコに言われた通り、ろうそくに火を灯し、水の抜かれた温泉プールを渡りきろうとする。

そう書いてみると、改めて、過剰で感傷的な話だと思う。この筋書きを、ほかの演出家にやらせたら、ノスタルジアにはならないだろう。
そもそも、なぜドメニコが終末を信じ、世界の救済にそこまで執着しているのかがわからない。私たちは天才の憂国の真意がまるでわからない。たとえばなぜ三島由紀夫はあんなことをしたのか理解できない。
アンドレイが火を灯したろうそくを持って温泉場を渡りきろうとする試みも、風に消されて何度か失敗する。ドメニコとの約束を果たそうとしているのだが、とはいえ、ろうそくの火を消さずに湯治場をわたりきったとて、それがなんだというのだろう。

ところがタルコフスキーはそのシーンを切実に見せる。
かつてストーカーのレビューに『そこは美しい場所だが、もし設定を外すなら、三人の男が野原や廃墟を歩いて行く──だけの映画である。』と書いた。
設定がなければ、徒労でしかないという話である。
しかしゴルチャコフがろうそくをもって温泉をわたり、それが成功すると、達成感や、救済に似たものを感じ取ることができる。
ゴルチャコフは倒れ、絶命したように見える。続いて、彼と犬とロシアの家が、イタリアの修道院跡の内部に収められた、夢のような光景が映し出される。そこに「母の思い出に捧げる──アンドレイ・タルコフスキー」と出て、終わる。ここで描かれる母への思いは『僕の村は戦場だった』とも重なり、さらに『サクリファイス』へとつながっていく。

タルコフスキーへの傾倒を語っていたデヴィッド・シルヴィアンだが、もっともタルコフスキーを思わせるのはJapanの主要メンバーが再集結し、Rain Tree Crow名義で唯一残したアルバムのBlackwaterだと思う。
"On the borderline of truth, hope and violence"
Blackwaterでは、静寂と暗闇のなかで道を失った人物が、かつて愛した光のある場所へ、もう一度導いてほしいと願っている。

今は映画の様態が変化して、タルコフスキーみたいな監督はいない。フェリーニ、ヴィスコンティ、ベルイマン、ミケランジェロ・アントニオーニ、ゴダール、アラン・レネ、ベルトルッチ、アンゲロプロス、そういう映画が資本に乗ることが、まずない。とはいえ名画は忘れ去られることがない。
世間はさまざまな雑音に満ちているが映画の価値には絶対値がある。だめなものはだめだし、いいものはいい。その絶対値は知っておいたほうがよく、基本的に誰かの批評よりimdbの点数を信頼したほうがいい。(と思う。)
IMDbは7.9。Rotten Tomatoesは批評家評が88%、観客評が90%。

「映画やってました」という欺瞞 花腐し (2023年製作の映画)

1.0

2000年に芥川賞を受賞した松浦寿輝の原作をもとに、その世界観を踏襲しつつ、舞台を斜陽のピンク映画界に置き換えて描かれている、とのこと。

原作は読んでいないが、映画について思ったことを述べたい。なお、憶測や思い込み、嫌バイアスが混じっている。

主人公栩谷(綾野剛)はピンク映画監督で、荒井晴彦監督の来歴および、日本映画界そのものの来歴から生まれた亡霊、あるいは化石のような存在といえる。

AVが台頭し、にっかつロマンポルノのようなドラマ仕立てのピンク映画が売れなくなる過渡期。
時代の変化のなかで没落していく自分たちの仕事環境を、哀感たっぷりに嘆きつつ、青臭く低回しながら話が進んでいく。

つきあっていた女祥子(さとうほなみ)が同僚のピンク映画監督桑山(吉岡陸雄)と心中による水死体として発見される──ところから映画が始まる。

その通夜へ訪れた栩谷は、祥子の両親から門前払いされるのだが、自分の身分を明かす台詞に、

「映画やってました」

というのがあった。おそらくこれは監督の言いたい台詞であったろうと思う。

しかしはたしてかれは映画をやっていただろうか、とわたしは思う。映画は一般の人々を感動させたり泣かせたり笑わせたりするものであって、あなたは「一部の人間にわかればいい」映画をつくっていたにすぎない。
この年(2023年)旬報や芸術などの佐欲メディアで絶賛された「花腐し」とは対照的に、全米を湧かせアカデミー賞までとった「ゴジラ-1.0」は日本の批評家たちから無視された。ただし山崎貴が、

「映画やってました」

と言うなら、わかる。

そういうところだ。

つまり映画「花腐し」は化石が作って化石メディアが褒めて日本アカデミー賞が顔を引きつらせながら賞をあげる古色蒼然たるしかし代表的な日本映画だったといえる。

撮影は白黒とカラーを織り交ぜている。内容はにっかつロマンポルノそのもの。
派手な性交シーンが再三でてくるが、わたしたちがそこに感じるのは、ただ「見えないようにしていることのぎこちなさ」だけであって、他の感慨はない。監督が興味や執心をもって描いているであろう性交シーンに、心も他のところも動かされない。いったいセックスがなんだというのだろう。なにが面白いのですか?

栩谷は自分が身を置いているピンク映画産業が、次第に時代に取り残されていくことにデカダンスを気取ってみせるが、あなたはたんに「一部の人間にわかればいい」映画をつくっているだけの独善的人間に過ぎない。
ところが登場人物はまるでヴィスコンティの没落する貴族のようにその事態に深刻に憂慮する様子を見せる。
ただ日ごと、タバコ吸って、酒飲んで、脚本書いてるだけなのにもかかわらず、である。
そもそもピンク映画監督は、タダで裸が見られる、あるいは女優とやれるかも、という下心から映画界へ迷い込んだ輩なのであって、日本映画の重鎮にはそういう人たちが多数いる、という事実混じりの仮説をわたしは信じている。そんな輩が、勝手に能書きを垂れ、勝手に男本位の話を書いて、勝手に女を虐げて、勝手に哀愁をまとってみせているだけなのにもかかわらず、な・に・が・え・い・が・や・っ・て・ま・す・だ・よ・ふ・ざ・け・ん・な、とわたしは思った。
当然、栩谷が言わなければいけなかったのは「ポルノ映画をつくっています」だったはずだろう。

ちなみに、2011年以降の日本映画にしばしば出てくる東日本大震災の関連台詞も出てくるが、震災のキーワードは、もし関連がないのであれば、あたまの悪い脚本が使う都合のいいエクスキューズでしかない。

とはいえ、お抱えメディアがついて、買う人がいて、おまんまが食えて、なんら問題はない。
ただ、一般の観衆としてはどうみるのか。
2020年代に、ネットフリックスにある映画としてはどうなのか。……。

栩谷「自分の性欲を恥じていただろう?だから勃たないんだよ。俺は若い頃、好きだからセックスをするのか、セックスをしたいから好きなのかわからなかった。『若いころの恋愛は発情にすぎない』って、富岡多恵子が言ってたのを読んで、ああそうだったのかって思ったよ」

伊関(柄本佑)「発情してたのに勃たないんじゃ、それこそ恥ずかしい」

栩谷「セックスに愛は要らないんだよ。愛があると遠慮しちゃうだろう?正常位しかできない。だから愛はセックスに邪魔なんだよ」

伊関「そうか」

栩谷「それで、できたの?」

伊関「目をつぶったんだ」

(ベッドシーン)上半身裸のさとうほなみの上で挿入しようとしている柄本佑

祥子「もうちょい下」

伊関「下、下、んんっ」

祥子「あっ」

伊関「はあ入った入った」

祥子「もっと奥まで入れて」

伊関「痛くないの?」

祥子「痛いけど、伊関くんともっとつながりたいから、ああっ」

伊関「あっ、ちょっと待って、やばい。奥やばい。だめだ。ちょっとまって……」「はあ。すぐいっちゃった、ごめん」

祥子「だいじょうぶ」

このほか騎乗位や後背位、後半ではふたりの女と酔った伊関がやっていて半勃ちだったのをアナルディルドを挿入したら元気になるというシーンが、相当な尺でとってあった。これは言うまでもなく監督兼脚本の荒井晴彦氏が、半勃起だった男の肛門にアナルディルドを入れたらシャキッとした、というシーンが重要である──と考えたからに他ならない。
百歩譲って、それを作家性だと認めたとしても、問題は、そんな描写を見たいと思うかである。これらの四畳半襖の下張、思い出横丁の酔客の屁みたいな昭和臭ぷんぷん描写にあなたは感興できるか、という話である。

わたしにはムリだったので1.5倍速にして見た。とうてい耐えられなかった。ちなみに鍋を食べているシーンがあるが、も・の・す・ご・く、まずそうだった。いい鍋だったのに、そしてただ鍋を食べているだけなのに見ているのが苦痛だった。

日本映画耐性を測る映画だと思います。「まあまあ」や「意外とよかった」ならば耐性ありだと思います。

 

豪華絢爛 フランケンシュタイン (2025年製作の映画)

2.5

フランケンシュタイン。
映画人が愛する象徴的な話である。
お金がかかっていて、役者が揃い、話は重厚。どのシーンでも絵面が決まり、撮影もVFX・SFXも凝っていた。
しかしなぜかおもしろくない。
これは『シェイプ・オブ・ウォーター』でも『ナイトメア・アリー』でも感じた。『クリムゾン・ピーク』も同様の印象だったと思う。

ギレルモ・デル・トロ・アレルギーとは魚アレルギーのようなもので、微量の魚臭でも反応する。
そしてギレルモ・デル・トロの映画が含有しているのは、おそらく「あざとさ」だと思う。
打算が見え隠れする。「見せ方、うまいでしょ」っていう感じがはりつく。

たとえばタランティーノの場合、あざといといえばあざといのだが、それを凌駕する楽しさとエキセントリックさがある。
あるいは、たとえばランティモスの『哀れなるものたち』は、現代版フランケンシュタインと言えた。女性版の物語であり、歪んで、どろどろしていて、どこか「籠の中の乙女」への回帰のようにも感じられた。

ギレルモ・デル・トロの扱う話は、すべてが奇譚ではあるのだが、破綻しない。王道で、小利口で、歪みも綺麗な歪みかたをする。どこかが「あざとい」。だから文句のつけようがないほどドラマチックなのに、(個人的には)感興できない。
ところが巨匠枠なのでお金も役者も使える。結果、わたしの中でギレルモ・デル・トロは「毎回壮大にスベる監督」という位置づけになった。

デル・トロのスタート地点はクローネンバーグ風の映画だったが、形容するとしたら「毒のないピーター・ジャクソン」。
双方ファンタジーの名手だが、デル・トロは毒のかわりにあざとさが出る。ただし『ミミック』と、ウェズリー・スナイプス主演の『ブレイド2』はよかった。作家性を盛り込みすぎていないエンタメ映画では、巧い演出家だと思っている。

で、今回の『フランケンシュタイン』。
すごい豪華。
真面目なのはわかる。几帳面なこともわかる。凝り性もわかる。Rotten Tomatoesの批評家たちの一致した見解である──
「『フランケンシュタイン』は、ジェイコブ・エロルディの傑出した演技によって最も爽快な活力を得た、豪華な叙事詩である」
──というのもわかる。

しかし。
たとえば撃たれたエリザベスを抱っこして歩く、哀しみのフランケンシュタインというシーンがあるが、その様式美のなかに入って楽しむことができなかった。どこか冷めた目で見てしまう。すべてがそんな調子。
映画にはこういうこともある。
IMDb 7.4、Rotten Tomatoes 84%と94%。