津次郎

映画の感想+ブログ

美女と血糊 VENUS/ヴィーナス (2022年製作の映画)

3.0

クラブから薬物を盗み出したダンサーのルシアが、姉と姪の住む古いアパートに逃げ込み、怪しい老婦人たちと超自然的な恐怖に巻き込まれる話。

wikipediaに、
『ScreenAnarchyのシェラ・ローワン=レッグは、この映画を「ホラー、犯罪、大量の血、素晴らしいずる賢い老婦人、かわいい子供、そして最高にカッコいいヒロインが登場する、とても楽しめる映画」と評した。』と書いてあって、ほぼそれで合っている。

主役ルシア役のEster ExpósitoはAIで生成したような顔と体をしていて、子役はいい感じの素が出ているし、血糊もたっぷり。
ただ、登場人物たちが、なにをやっているのかは、よくわからない。雰囲気でもっていって、それが破綻していない感じだった。

ラヴクラフトの「魔女の家の夢」という短編小説をゆるやかに脚色したもの、だそう。おそらくローズマリーの赤ちゃんの悪魔崇拝、あるいはサスペリアのような闇の邪術師がいて、人を操って自傷や自死をさせる、という話だった、と思う。
ただし、敵はわりとあっけなくて、割腹したところをホチキスとダクトテープで応急処置して生き延びているゾンビみたいなルシアに、あっさり全滅させられ、姪と手をつないでアパートから出てきて終わる。

主役ルシア役のEster Expósitoが、持て余す感じのいい女だったので、AIに彼女は有名なのかと聞いた。

AIは、
『Ester Expósito(エステル・エスポシト)は、スペインでは非常に有名な女優です。 しかも人気は本国だけにとどまらず、メキシコを中心とした中南米のスペイン語圏にも広がっています。
特に興味深いのは、彼女が単なる人気女優ではなく、容姿やセックスシンボルとしての人気があまりにも大きくなったために、女優としての評価を得るのに苦労してきた人物だということです。』と回答した。
なるほど。

Netflixの学園ドラマ『エリート』でブレイクし、Instagramフォロワー約2,500万人(2026年10月時点)。
AIはさらに続けてこうも言った。
『美貌や性的魅力を利用して有名になった人物が、そこに閉じ込められたくないと考えている。 彼女の発言を読み比べると、そんな人物像が浮かんできます。』

AIはそういったものの、これは若手の美人女優なら、誰でも一度は言いそうなことだと思う。アナデアルマスが同じようなことを言っているのを見たことがあるし、シドニースウィーニーにも似た発言が見つかるだろう。
可愛い役しか巡ってこなければ、シリアスもできると言いたくなるのが心情だ。
ただし見るほうはわりと冷静で、これは人気女優の新しい側面を見せようとした映画だな、というのはわかる。という話。

ゾンビより重いもの YUMMY ヤミー (2019年製作の映画)

3.5

美容整形のため東欧の医療施設を訪れた女性とその恋人が、施設内で発生したゾンビ感染に巻き込まれる。
二人は感染者たちの襲撃を逃れ、封鎖された施設からの脱出を図る、という話。

噛まれると感染するゾンビパートはだいたいふつう。ただしそこに「巨乳」が足されている。

主人公のアリソンは、母親のシルビアとともに、残念な彼氏マイケルの運転する車で名高い美容整形外科医のラボへやってくる。マイケルは折を見計らって渡そうと、結婚指輪を持参している。

真面目なアリソンは巨乳に悩んでおり、乳房縮小手術を受けに来た。一方の母親はビューティージャンキーで、口角挙上術、腹部の引き締め、豊尻、肛門周りの美白などなどを受けに来た。

病院はいろいろと怪しく、チャラいノリのスタッフ、ダニエルがアリソン(の巨乳)に目をつける。

やがてゾンビが発生。主人公たちは逃げ回るが、仲間は徐々に減っていく。マイケルはことごとく失態を繰り返し、そんな彼に愛想を尽かしかけたアリソンに、ダニエルが付け込んでいく。

ネットで、ダメ彼氏マイケルを演じた俳優Bart Hollandersのインタビューが見つかった。

記者はこう聞いた。
『あなたの共演者Maaike Neuvilleにとって、撮影はさらに過酷だったでしょうね。彼女はFカップの胸まで抱えて動かなければならなかったのですから。』

Bart Hollanders
『あの偽物の胸のおかげで、何キロもの重量が余計に加わっていました。重いリュックサックを一日中背負っているようなものです。ただし、背中ではなく身体の前側に。しばらくすると、Maaikeは実際に背中を痛めてしまったんです。』

話は変わるが、成人映画女優のCodi Voreさんは白くて大きなものをもっていた。彼女は2024年にそのリダクション手術をおこなった。
きっかけはホルモン避妊薬による体の変化だったらしい。薬の影響で何カップも大きくなり、体重も増えた。ダイエットで元に戻そうとしたものの、うまくいかなかった。そのため、縮小手術を決意した。ただし、小さくすることは何年も前からの希望でもあったという。

鑑みるに、それが武器であり、いわば彼女のトレードマークでもあったものにメスを入れたのは、大きな決断だったに違いない。ケイ・パーカーやクリスティ・キャニオンがそうするようなものだ。
男たちはそれに対して、「しないほうがよかった」などと、無神経なことを言うだろう。しかし、四六時中ぶらさげていなければならないものを、どう処遇するかは当人の勝手である。

しかも彼女は大きな手術痕が見える状態で、今もふつうに出ている。それが興味深い。てっきりリダクションの公表は女優をやめることと抱き合わせになっていると思っていた。そうじゃなかった。

外国のサイトで彼女のインタビューも見つけた。大学時代は勉強熱心で、大きな目標を持っていたが、理想だと思っていた仕事を目指すうちに、疲れ果てて不幸になっていることに気づいたという。
現在は経済的に困窮した性産業従事者を支援する団体の共同設立者でもある。将来は長編作品を監督したいとも語っていて、やがては彼女が撮った映画が見られるかもしれない。仕事も体も選び直しているというわけ。

とはいえである。Codi Voreの元乳はよかったんだ。パーカーやキャニオンあるいはリサ・スパークスみたいに下垂があるのがいい。Voreさんのもそういうのだった。
しかし、あれらはどれほど重いものなのだろうか。男としては想像してみるほかない。

映画でもっとも強烈なシーンはゾンビになってしまった母親を始末するところ。暴れるので椅子にしばりつけた状態から斧を振り下ろそうとするのだが、弱腰なマイケルは逡巡するばかり。結局娘のアリソンがとどめをさすことになって、そのとき彼女はこう叫ぶ。
「どうしていつも十代の娼婦みたいな格好をしたがったのよ!」
小さくしたい人もいれば、大きくしたい人もいる、のであった。

さて、ダニエルは結局ゾンビに感染し、人間の意識が残っているうちにと、やけくそでアリソンに襲いかかるが拒まれ、車で轢かれる。
その後、感染せず命からがら逃げてきたマイケルまで、ゾンビと間違えられてアリソンに轢かれる。アリソンも車を木にぶつけてお陀仏になる。

いぇーい。

映画は誰も助からずに、マイケルの結婚指輪が転がってきて終わる。
美容整形を足した脚本は賢くて、母娘の対比、ダメなマイケルとチャラいダニエルの対比はよかった。ただ、襲撃や逃走を繰り返すゾンビパートが冗長だった。
IMDb5.9、RottenTomatoes69%と41%。

普通の破天荒 ブラック・ショーマン (2025年製作の映画)

2.0

決めシーンにしたいのが見えているのに、決まらないことで、疲れる映画だった。
ガリレオのような印象的なキャラクタライズをしようとしていたが、たんに荒唐無稽な主人公になっていたように思う。
湯川学は変で、不遜だが、俗っぽくはない。一方神尾武史は、言わば普通の破天荒な人物だった。

手際がいい。人の心理が読める。先を予測できる。必要なものはいつの間にか手に入れている。花びらやカードがいいところで舞い散る。
それらを全部「マジシャンだから」で押し切ってしまっていた。
警部から必要な情報を抜き取るシーンを、後出しじゃんけんみたいに語り、「操作する指と目の動きを見れば暗証番号ぐらい誰でもわかる」とか言ってしまうのは、鼻白むものがあった。
すなわち「マジシャンだから」が、脚本上の短絡をも補う万能カード化していた。
かえりみて、(映画の)容疑者Xの献身や真夏の方程式の出来のよさを思い知った。

また、ぬるっとしていて見づらかった。
ぬるっとの根拠は有村架純さんで、弾けてほしいところで会話が弾けなかった。もちろん有村架純がわるいのではなく、配役がちがうのであり、ここは伊藤沙莉みたいな人が合っていたように思う。毒舌に対して跳ね返らないと沈滞する。この辺り、ガリレオにおける柴咲コウや吉高由里子の起用は的確だった。
有村架純さん以外でも映画にはからっとタイプの人がいなかった。からっとを出せる成田凌さんも、いちばんじめっとした役に使われていて、結局からっと晴れるのが登場時間の少ない生瀬勝久さんと伊藤淳史さんしかおらず、ぬるっとした雲が晴れることはなかった。

というわけで、ぬるっとしているので笑えず、決めシーンがすべることで気まずくなる、一人で見ていないとやや窮屈な映画だった。

台詞も生硬だったが、シーンも回し過ぎで、さっさと次の場面か、違う場面に切り替わってくれていいと思った。
日本映画は、往々にして、会話も動作も終わっているのに、シーンがもう一呼吸、二呼吸と続くことが多い。
個人的な感慨だが、もし日本映画が、一斉に、さっさと次のシーンへ移るということをやったら、日本映画のIMDbポイントは1ポイントあがると思う。本気でそう思う。

福山雅治は湯川学を演じながら、「もし湯川がダークサイドの人間だったら」と考えていたという。その話から、東野圭吾が「福山雅治のダークヒーロー」を発想し、「ブラック・ショーマン」が生まれたらしい。
由来を知ると、なるほどと思うものがあった。
しかし率直に言うと「先生お願いしますよ」と新シリーズを打診されてルックバックを見たあとに書き上げたという感じ。少なくとも映画は感心しなかった。(原作は未読です。)

ただし一点、ラストの、
「それじゃ、これで」
「待って、私まだ……」
という場面は強かった。
きれいに決まってグッとこさせた。
だからこそ、それまで決まらなかった場面の多さが、惜しく思えた。

恐竜が来て、家族が戻った オークストリートの異変 (2026年製作の映画)

4.5

デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の「イット・フォローズ」が好きだ。
なぜ好きなのかと言えば、雰囲気づくりにあると思う。
以前「イット・フォローズ」のレビューにこう書いた。
『始めに、ヒロインと仲間の、生活臭の感じられない日常が描かれる。
アメリカの典型的な郊外住宅地。
中流らしきビニールプール。
ゆっくり移動するレールカメラ。
いきなりシュミーズ姿でまろび出るオープニングから一転してまったりする。
そのダルい日常が魅力的で、すぐに映画の中に引き込まれた。』

「Under the Silver Lake」でも、さえない主人公の生活ぶりを丁寧に描いてから事件へ持っていく。
人物や生活の肌触りを、おざなりにしない作家なのだと思う。
「オークストリートの異変」は、家族の描写に焦点をあてた「ジュラシック・パーク」という感じだった。さらに「ポルターガイスト」の家族にも通じるものがあった。

舞台は1982年。古き良きアメリカ郊外の気配が漂うオークストリートに、プラット一家は暮らしている。
表向きは完璧な家族だが、グレッグ(ユアン・マクレガー)は失業したことを妻デニースに隠している。デニース(アン・ハサウェイ)は毎晩地下室で、家族から逃れたい女性を描いた小説を書いている。
娘のオードリーや弟ブライアンも、夫婦仲の危うさに気づいている。
そんなある日、一帯が謎の閃光に包まれ、街区ごと先史時代へ飛ばされる。
外界から切り離され、恐竜や翼竜が跋扈する街で、家族は生き延びなければならなくなる。

アン・ハサウェイが出ている映画をそれほど見ていないせいもあるし、また、どこに出ていてもきれい過ぎるのもあると思うが、この映画ではじめてアン・ハサウェイが演技している姿を見た気がする。いや、演技力に疑いをもっているわけではなく、あまりうろたえるような役を充てられないせいか、とても演技していた、と感じられた。
彼女は夜な夜な小説を書き、自分の人生を別の場所へ持っていきたいと思っている一面があった。その描写があるからこそ、母親として恐竜から子供を守る気丈な姿も生きたのだろう。
崩れかけていた家族が、恐竜が現れたことで初めて家族として機能し始める。そのラインが自然に入ってきた。

この映画の核はラストの逆転にあると思う。
デニースは作家になることを夢見ながら、ピザの配達で家計を支えるグレッグの生活を、どこか格好悪いものとして見ていた。
グレッグはピザデリバリーの車両アドを「ママが恥ずかしがる」という理由で毎回外していたのだ。
ところが最後に家族を救うのは、まさにデニースが軽く見ていた、グレッグの仕事ぶりだった。
グレッグは家族と過ごしたい時間であっても、雨が降ろうが槍が降ろうがピザを配り、家計を支えてきた。
その地道さが最後になって意味を持ち、夫婦のあいだに切れていたものまでつなぎ直す。  
泥臭いブルーカラーの父を尊敬しなさいという教訓になっていたし、わたしの映画視聴範囲内の話ではあるが、近年まれに見る、見事なハッピーエンドだった。
鑑みれば家具が勝手に動くだけでは、映画は面白くなりゃしない。「ポルターガイスト」は、そこに家族を置いたから映画になった。恐竜だって同じだ。
「スイート・トゥース」のツノ少年、クリスチャン・コンヴェリーも出ている。オードリーを演じたメイジー・ステラもよかった。「My Old Ass」でオーブリー・プラザの若年期を演じ、Critics Choice Awardsの若手俳優賞を受賞した若手有望株である。

良作だが、批評は賛否に割れていた。賛も否も盛んにスピルバーグを引き合いに出している。
設定だけ見ても「ジュラシック・パーク」や「E.T.」を思わせるところは多い。褒める側はそのスピルバーグ的な娯楽性がうまく機能していると言い、貶す側は「AIのスピルバーグボットが作ったようなパスティーシュ」とまで書いていた。
わたしも、骨組みはかなりスピルバーグ風だと思った。
舞台が1982年なので、懐かしさそのものは最初から仕込まれている。だからレトロ感というと変だが、ミッチェル監督は地にレトロ感がある、とでも言おうか。1982年の郊外をじっと眺めているうちに何かがおかしくなっていく感じや、惨事なのにどこかふざけた気配が漂っているところには、「イット・フォローズ」や「Under the Silver Lake」と同じミッチェルの癖があった。
だからわたしには、スピルバーグのコピーというより、スピルバーグ的な家族映画をデヴィッド・ロバート・ミッチェルの妙な郊外=地のレトロ感へ連れてきた映画に見えた。

IMDb6.2、RottenTomatoes86%と76%。
IMDbの6.2は想像より1ポイント低かった。多くの人が、家族のとる行動の愚かしさゆえのもどかしさを不満点に上げていた。

悲しむための余白 ザ・フレンド (2024年製作の映画)

2.9

大学教授ウォルターが自殺した。彼の飼い犬アポロは、教え子であり友人であり、一夜の関係もあったアイリスに託される。
ウォルターはビル・マーレイ。アイリスはナオミ・ワッツ。アポロはしっかり訓練されたグレートデーン。場所はニューヨーク。
好ましい人たちが演じ、舞台も会話もエスプリが利いていて、そこに犬補正が加わる。嫌味のないウディ・アレン、という感じの映画になっていた。
これは意地悪な褒め方なので、ふつうに褒めるなら、喪失と人間と犬の絆を描いた、心温まるドラマということになる。
わたしは多分、犬や猫の可愛げによって、その周囲の人々までほんわかしてしまうドラマには辛辣だ。
まして好ましさのかたまりのような俳優が出ていて、犬まで名演なのだから、なおさら警戒しながら見た。
しかし、こんなすてきな映画を警戒しながら見る。悲しい奴よのう、己は。

ニューヨークの、まさに映画に出てくるようなレジデンスから、いいコートを着て、立派なグレートデーンを連れたナオミ・ワッツが出てきて、セントラルパークへ向かう。
日本の住宅から出て近所の公園へ行くのとは、やはりわけが違う。
喪失や孤独は普遍的な題材だが、それを映画として豊かに見せるには、環境がものをいうのだと思った。
映画には、アイリスが生きる現在と、ウォルターがまだ生きている想像の時間が入り交じる。そこへ叙情的な語りが重なり、豊かな時間が流れる。
役者ではウォルターの娘ヴァルを演じたSarah Pidgeonがよかった。放っておけば感傷に傾きそうな映画を、彼女のサバサバした感じがうまく中和していた。舞台などでも高い評価を得ている人らしい。
* * *
豊かさには前提があり、豊かさには種類がある。
犬が出てくる映画は、犬との交流を通じて心の豊かさを描くことが多い。
けれど犬や猫を飼うことには、じつはある程度の生活の余白がいる。
餌代や医療費だけではない。ペット可の住居、世話をする時間、留守にするときの段取り。ましてニューヨークで巨大なグレートデーンと暮らすとなれば、心の豊かさ以前に、かなり具体的な豊かさが必要になる。
『The Friend』は喪失と犬の映画だったが、同時に、喪失をゆっくり悲しむことのできる生活の余白を描いた映画にも見えた。

妄想乙とは、人のことを言えない ラブ・ハイポセシス (2026年製作の映画)

4.0

ブリタニー・マーフィの旧作かと思ったらリリ・ラインハートの新作だった。前にも別の映画で同じことを書いた気がする。前より似てきた。

アリ・ヘイゼルウッドの処女作『ラブ・ハイポセシス』は2021年9月に出版され、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに40週間以上ランクインしたそうだ。

また、この物語は元々、レイとカイロ・レン(=レイロ)を題材にしたスター・ウォーズのファンフィクションとして書かれたもの、だという。

Hypothesisは「仮説」という意味である。科学者同士の偽装恋愛を、実験めいたかたちで本物の恋愛へ転がしていく。

人気作品のファンダムでは、登場人物を勝手にカップリングした二次創作が、星の数ほど書かれるらしい。
「レイロ」とは、レイとカイロ・レンを恋愛関係として組み合わせる二次創作上のカップリングだそうだ。

わたしにとって「最後のジェダイ」の面白さは、レイが自分のなかにダークサイドを見てしまうことにあった。
善の側にとどまるのか、ダークサイドへ落ちてしまうのかが表裏一体で、そのあやうい立ち位置にいることにジュブナイルを超えた大人びたドラマ性があった。

そんなレイとカイロ・レンが、オリーブとアダムにゆるやかに憑依していた。

スタンフォードの大学院生オリーブは、母を早くに亡くし、父親もおらず、ほとんど天涯孤独だったが、思いやりある友人アン(Rachel Marsh)に会い、彼女をかけがえのない家族とみなすようになる。
そして自分の恋愛がうまくいっていると信じ込ませるために、生物学教授のアダム・カールセンと付き合っているふりをする。
周囲の人々に自分たちが恋をしていると信じ込ませようとするうちに、オリーブとアダムは自分たちの気持ちが偽りであることを忘れてしまう。

あっけないほど単純な話だが、自分のなかに眠っていた、自分でさえ知らなかった部分が、じょじょに開かれていくという展開が、「レイロ」を知らない人々にも刺さる話になっていた。

ところが、濃いベッドシーンを経て結ばれたと思ったところで、映画は急に重くなる。
オリーブに巡ってきた研究者としてのチャンスが罠だった。研究を盗まれ、立場の強い男から性的関係まで迫られる。  
ここで、それまでの「偽装恋愛」という軽いゲームが、研究者としての将来や権力差の話に接続される。
「相手のために身を引く」というベタなラブコメの約束事にも、急に現実的な重さが出てきた。映画が別の顔を見せ、そこから本気で面白くなった。

アダム役のトム・ベイトマンがよかった。まるでラブコメに出ないために生まれてきたような外観をしている。
話が一周して妙なのだが、アダムという名前はカイロ・レン役のアダム・ドライバーからきている。
しかも実生活でベイトマンの妻はレイ役のデイジー・リドリーで、さらに悪役トム・ベントンの名も、トム・ベイトマンをもじったものだとファンダムでは言われている。

畢竟、この映画はあんがい普通のラブコメなのだが、スター・ウォーズ二次創作由来のいろんなケミカルが配合されて、妙な豊かさを備えてしまっている。
レイロのファンならもっと拾えるものがあるのだろうが、ファンダムではないわたしでさえ、オリーブとアダムの恋路、それ以上にオリーブとアンの友情に胸が熱くなった。
天涯孤独に近いオリーブを救うのが、恋人だけではなく友人でもあるところがよかった。

ネットに散見される男性のコメントで、美しい女性に対して、「昔、つきあっていたカノジョに似ていた」というのがある。見つけると妄想乙と思うやつだ。
しかしこの映画のアン役Rachel Marshにわたしはビビっときた。
彼女は、わたしが昔つきあっていた女性――ではなく、つきあいたかっただけで、話もろくにできなかった女性に似ていた。
女の人のなかには、男の妄想をふくめ「昔のあのカノジョの気配」をもった人がいる。Rachel Marshはそんな人だった。

コメディアン兼女優で、フィリピン系でハワイ育ちの父をもつという。明るくて楽しくて友だち思い、何から何まで感じが良く、オリーブが、アンのために恋愛偽装するきっかけになるのは無理がなかった。

原作におけるアンの原型は、ローズ・ティコだという。  
考えてみれば、レイとカイロ・レンに恋愛を重ねた二次創作から生まれた映画を見ながら、わたしもRachel Marshに勝手に昔の女性を重ねていた。  
妄想乙とは、人のことを言えたものではなかった。

現実に追いつかれた未来 ランニング・マン (2025年製作の映画)

3.0

1987年にアーノルド・シュワルツェネッガー主演で一度映画化されている。邦題は「バトルランナー」。

エドガー・ライト監督は10代の頃からスティーブン・キングの原作小説が好きで、1987年版を見たときには、原作からあまりにも離れていることに驚いたという。
いつか、もっと原作に忠実な映画化をしたいと長年考えていたそうだ。

映画を見てまず思ったのは、未来世界にさほど未来が感じられないことだった。

原作は1982年に刊行され、舞台は2025年である。
顧みれば、わたしたちはすでに、キングが想像した未来に住んでいる。

貧困も、高すぎる医療費も、フェイク映像も、いまや珍しい未来像ではない。
ときどき映画内のテレビに映る「アメリカーノス」は、カーダシアン一家を扱ったリアリティ番組のパロディのようにも見えた。
逃走劇を見て憂さを晴らす庶民にしても、ブレーキングダウンのような血の気の多いコンテンツを眺めるわれわれと、たいして変わらない。

ライト自身は、映画の年代を明示せず、1982年にキングが想像した「もう一つの2025年」としてこの世界を作ったらしい。
だが、その意図を知っても、わたしには未来社会というより、現在社会を少し荒っぽくした世界に見えたのだった。

『1984』は1949年に刊行された。『ランニング・マン』は1982年刊行で、原作の舞台は2025年である。
未来を具体的な年号で描くと、いずれ現実に追いつかれ、こうして答え合わせをされてしまう。

もっとありえないくらい先にしておけば、少なくともこんな余計な答え合わせはされなかったのではないか。

たとえばマイケル・ヨークとジェニー・アガターが出てくる1976年の映画は「2300年未来への旅」である。
ジェニー・アガターがすけすけなあの映画を、わたしたちの後裔は検証するだろうか。
2300年の人類が1976年の映画について四の五の言うだろうか、という話である。

ところで、この映画を面白いと思えるかどうかは、結局、このプロットを面白いと思えるかにかかっている。

映画内の警察国家では、視聴率至上主義の、生きるか死ぬかの逃走劇が放映されている。
しかし視聴率や再生数を稼ぐためなら何でもやる、という姿勢そのものは、今日日テレビでもネットでも珍しくない。
一般人に毛の生えた動画配信者までやっている。

いまや珍しくもない欲望が、ディストピアの核心に置かれている。
個人的には、それを面白いとは思えなかった。

とはいえ、主人公ベン・リチャーズを演じたグレン・パウエルはよかった。
エドガー・ライトは真剣に、体制に虐げられた男の家族愛を描こうとしていて、パウエルは全身でそれに応えている。

家族に会いたいという男の渇望は、死の直前に妻子のもとへ帰る幻想を見る「アウル・クリーク橋の一事件」のような、切実なイメージで描かれていたと思う。

映画はエミリア・ジョーンズが出てくるところで、やにわに活性化した。

主人公と彼女の関係は、反逆者と、体制側で穏当に暮らしてきた人物という組み合わせだった。
言ってみれば「ゴールデンスランバー」の堺雅人と貫地谷しほりである。

逃走者は、普通に暮らしていた善良な人物を味方につけ、逆転への布石をつくっていく。
過剰なプロットのなかにいるエミリア・ジョーンズの普通っぽさが、映画をヴィヴィッドにした。

エドガー・ライトは音楽の使い方もうまく、グレン・パウエルも迫真だった。
演出にも大きな穴はない。

それでも、面白い話というより、わたしには現実に追いつかれてしまった古い未来の話に見えた。

ハリウッドを見渡したとき、スティーブン・キングの勝ちすぎを感じることがある。
先日どこかのVODで「キャリー」を見かけ、いつの版だろうと思ったら、また新しいやつだった。

IMDb6.3、RottenTomatoes61%と76%。

まぶしすぎて、泣けなかった ストロベリームーン 余命半年の恋 (2025年製作の映画)

2.3

この世で上位に置かれるのは、これから亡くなる人だ。まわりの人間は死を前にした人に逆らえない。そういう人を中心に据えたら、その映画もあまり怒られたりしない。
しかし残酷なことに、余命ものにも面白い・面白くないという尺度がある。主人公の欠点など、清らか一辺倒にならない何かがないと、わたしにはまぶしすぎる。
ところが日本の余命ものは、逆に、がんがんにまぶしくする方へもっていく傾向がある。
善良な人物が亡くなる人に抜擢され、そこへありったけの善意のアナウンスが降りかかる。チャリティマラソンみたいに。

『ストロベリームーン 余命半年の恋』もそんな感じがした。
桜井萌役の當真あみは慎ましさと麗しさと透明感を兼ねそなえ、相手役の齋藤潤は爽やかで、親友には思いやりがあり、お父さんは優しく、お母さんは田中麗奈である。
名前は「もえ」に「ひなた」に「うらら」。
街や学校の人々は箱庭ゲームのNPCみたいにアクを抜いてあって、誰ひとりヒロインの邪魔をしなかった。

ストロベリームーン(6月の満月)を好きな人と一緒に見ると、永遠に結ばれるというロマンチックな言い伝えがある。
その言い伝えがある一方で、一緒に生きていく未来を持てない萌と日向がいて、周りには沢山の美しい人々がいる。
また萌の家族の間では、「悲しい顔をしたらポイントが付き、そのポイントが一定数たまるとペナルティが科される」という約束がある。この約束を守ろうとする家族がいじらしくて、こうなるともう、まぶしすぎだった。

わたしは長いこと『湯を沸かすほどの熱い愛』(2016)をこすってきた。
亡くなる人を頂点に据え、それに準じるかわいそうな人を下にいっぱい置いておけば、観衆は同情し、泣く態勢に入ってしまう。
父親は失踪、娘の安澄はいじめられっ子、探偵は妻を亡くして子連れ、拓海くんは継親から逃げたヒッチハイカー、酒巻さんは言葉を発することができない。その頂点には末期がんの双葉(宮沢りえ)が立っている。
このピラミッド構造は日本中を泣かせた。
しかしなぜ不幸せを背負った者ばかりを並べるのか。
映画には、病院の窓から見える中庭で「人間ピラミッド」を作るという場面がある。あれはセルフパロディだったんだろうか。

とはいえ、余命ものは、はなから純愛や感動を浴びたい人のために作られていて、こまっしゃくれたことを言ってくる客を想定していない。
じっさい『ストロベリームーン 余命半年の恋』は、わたしが見た2026年9月上旬、Netflixの「今日の映画TOP10(日本)」で首位にあり、Filmarksでも映画コムでも高く評価されていた。
多くの人にとって、まぶしすぎていなかった。

死ぬ話にもいろいろある。 
「ぼくとアールと彼女のさよなら」(2015)には感動をおぼえた。そのレビューに「泣けても爽やか。悲劇なのに軽妙。」と書いた。

死ぬ映画のマーケットは確実に存在し、定期的に話題の死ぬ映画が出てくる。
現に今も、川口春奈さん主演、2026年10月公開の映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』の番宣がはじまっている。
観衆に、これは違う余命であり、違う死だとアピールしなきゃならない。

本作でその役を担っていたのが、みらい郵便やひまわり畑だった。
病院の窓から見える庭いっぱいのひまわりは、たしかに泣かせどころだった。だがわたしは『湯を沸かすほどの熱い愛』の人間ピラミッドを思い出した。どちらも病院の窓の外で、死を控えた人に見せるための光景だった。感動じゃないほうの鳥肌が立った。

「いい仕事」がソープではなかった FUJIKO (2026年製作の映画)

2.0

シングルマザーが貧困や社会制度などに抗うところは、マーガレット・クアリー主演のNetflixドラマ「メイドの手帖」に似ていた。

「メイドの手帖」は、Stephanie Landが2019年に上梓した『Maid: Hard Work, Low Pay, and a Mother's Will to Survive』に基づいている。
一方、「FUJIKO」は木村太一監督の母親の半生を題材にしながら、企画・プロデュースを務めたMEGUMIさんの「女性をエンパワーメントする映画をつくりたい」という思いから生まれた、ということだった。

「メイドの手帖」では、シングルマザーとその子供に提供されているはずの支援が、煩雑な手続きによって受け取れない状況や、制度そのものが目的を果たしていない実態が鋭く描かれていた。
アレックス(クアリーの役名)には金も資源もなく、ちょっとした不運が雪だるま式に膨れ上がり、惨事へ発展していく。
個性的な登場人物と、過酷な境遇を綱渡りのように生きる、息苦しいほどのドラマだった。

「FUJIKO」もそういうドラマだった。
ただ、どこまでが真実で、どこまでが脚色なのかはわからなかった。

映像は、言ってみれば「虐げられる女」のシークエンスを次々と積み重ねていく。
その虐げられた女性像がすべて真実かもしれないので、軽いことが言えないのはわかる。

それでも言ってしまうなら、若山富三郎に逆らえない山城新伍監督の映画、という感じだった。

もちろん完全な妄想だが、カメラのこちら側には長いスカートをはいたスケバン風のMEGUMIさんがいて、「賭場にガサ入れ行こか」「蕎麦食べて泣こか」と感覚的に指示しながら、映画が肉付けされていったようにさえ見えた。
たとえば、賭場の賄い前任者の顔には刀傷があった。それは「賭場の姉御なんだから刀傷でしょ」という鶴の一声があったんじゃなかろうか。

おやっさん(若山富三郎)が、息絶えるシーンを撮っていて「ここは雪だろ」とおやっさんが言ったら、山城新伍としてはなにがなんでも雪を降らすしかないわけで。

富士子が蕎麦を食べて泣く場面も、清々しいほど紋切り型に、わたしには見えた。(ドリフの寸劇だというならわかるが)
そのように見えてしまったこと、ほんとうに、すいません。

とはいえ「FUJIKO」は、「稼ぎたいなら、いい仕事紹介しよっか」の「仕事」が性産業ではなかったことで、凡百の日本映画から頭一つ抜けていた。
それだけで完全に凌駕していた、と言っていい。

荒井晴彦的な映画なら、ここで女優をソープへ沈めてしまう誘惑に抗えなかったのではないか、と意地悪く想像した。(意地悪い想像ではあるが、昭和系がそっちへもっていくのはまずまちがいないことだ)
それをせず、「いい仕事」が賭場の賄い婦だったことで、わたし的にこの映画はコメディに昇華した。

そもそも富士子の零落の根本原因は姑と小姑のいびりだったが、率直に言って、配偶者一家の思考回路は意味不明だった。

女性をとっとと崖っぷちに立たせ、苦労する女をたっぷり見せるという、日本映画古来のサービス精神が先に立ってしまい、結局なぜ富士子がここまで窮地に陥ったのかが曖昧だった。
これは「メイドの手帖」との決定的な違いである。

それでも映画は、富士子を「既成の価値観や社会規範に抗う女性」として押し出した。
このスタンスを俗にマーケティングと言う。

なぜなら現代では、雰囲気でもっていった作品であっても、バズったら勝ちだからだ。
現に2026年9月上旬、NetflixではMEGUMIさんがらみの「FUJIKO」と「ラヴ上等」が同時に目立っている。
それは、この映画が勝ったことを示していた。

ちなみに富士子は、ずっとロックをやりたいと思っていた。
映画のなかで楽器を演奏したり歌ったりする場面はないのだが、ラストではロックをやるために、どこか新天地へ出ていく。
モラトリアムめいた願望だが、それで一応、「女性をエンパワーメントする映画」という看板には辻褄が合う。
ただ、彼女の行く先は漠然としていた。どこで、どうやって、だれと……。むしろ現状より、はるかに困難な道のりであろう。
わたしには半ばコメディに見えていたが、最後のこの飛躍だけは、笑って済ませるには少々大きかった。

 

『災』はズラし方を知っている 災 劇場版 (2026年製作の映画)

3.6

謎めいたというか、意識高い系の映画だった。

ただし、承認欲求というか鬼才感はなく、シーンも下手な余韻を残さず、さっさと切り替わってくれて、とても見やすかった。
個人的には揶揄に使っている、間や沈黙や意味ありげな余韻を過剰にありがたがる「日本映画」とは違うと思った。

ドラマを切り刻んで貼り直したものが映画で、ズタズタになった時系列が、むしろ映画に速度と妙味を与えていた。
映画のあとにドラマを見て、それがわかった。

基本的には、香川照之の復帰を後押しするような作品になっていて、多羅尾伴内ばりのキャラ変を見せていく。
そりゃもう達者なもんだった。

ただし「災」は香川照之の七変化(慣用句を使わずに言うなら六変化だが)であると同時に、被害者や関係者の人間模様のドラマでもあり、そっちも見どころになっていた。

いちばん印象的だったのは、ショッピングモールの清掃員を演じた内田慈。

見ず知らずのショップ店員に、ゴミ捨ての分別を注意するような責任感がある一方で、孤独な夜にはマッチングアプリを眺めて過ごす。
理髪店員役の藤原季節を注意したことから、ふたりは知り合いになる。

藤原季節も、変なところで激昂しそうな、妙なタイミングで社会性を顧みなくなるタイプを好演していた。
カップルになってからの内田慈は、見事なツンデレ演技をみせた。

小林桃子演じるZ世代風の新人が、人前で怒鳴られたことが屈辱だったと恨み節を言い、彼女は清掃員をクビになる。

場末な職場にいる、わけのわからない人物。
そういう人物造形や出来事のディテールが、すこぶるリアルだった。

成功しなかった自分を棚に上げて言うが、職場にはだいたい変な人しかいない。
その感じがうまく表現されていた。

中村アンはクセがなくて好感をもった。
黒沢あすかさんも少し出ていて、短い出番ながら目をひいた。
不安を煽る音響にも、登場人物の一人のような、はっきりした存在感があった。

映画およびドラマ「災」の核心は、苦しいところを乗り越え、ようやく希望や幸せの兆しが見えてきた人物の前に「災」があらわれ、それを奪う、というところにある。
多くの場合、文字どおり命まで奪ってしまう。

ただ、それが悲劇として大仰に描かれるわけではない。
災いは淡々と置かれていく。

ホラーともサスペンスとも刑事ものとも言い切れない、妙な手触りのドラマになっていた。
あり得ない感じもあるので、ファンタジーともいえる気がする。
曖昧なので、冒頭であえて「意識高い系の映画」と書いたわけでもある。

いずれにせよ、この(演出家の)二人は「ズラし方」を知っていると思った。
個人的な見解だが、こういうズラし方がうまい日本映画は、まじで少ない。

想像のガドットは甘かったが、映画のガドットは硬かった ザ・ランナー (2026年製作の映画)

2.0

ガル・ガドットが走っている画像からwedgieなんかを期待して見た。
もちろん、そんなものはなかった。

ガドットはハガネのように鍛えられていて、無駄のない健康美だった。どのシークエンスでも性は入念に除去され、その身体は女性スターというより、ひたすら走るための運動体として撮られていた。
足も速く、次々と難題を乗り越えていく様は、さながらコスチュームを着ていないワンダーウーマンだった。

映画は、糖尿病の息子をさらわれた母親が、犯人の要求に従いながら真相へ向かってロンドンを駆け抜けるサスペンスドラマである。
わが子のために身を挺する母親の悲壮感を出しながら、その都度ミッションの制限時間を掲げ、緊迫感を演出してみせる。

ただ、映画はどっちらけだった。
息子の命がかかっているはずなのに、事態の重大さに反比例して、こちらはのんきに茶々を入れながら見ていられた。

しかしガドットさんは40代にもかかわらず、よく走った。
18歳から2年間イスラエル国防軍に所属していたというが、すらりとした体躯が疾走する姿には天資のものを感じた。
青いランニングトップ、黒いランニングレギンス、赤いランニングシューズ。揺れるポニーテールまでばっちり絵になっている。

とはいえ、彼女は息子を助けるためとはいえ、人様のスマホを盗み、警察や公衆に迷惑をかけまくった。賛否の「否」の中心は、そこだったのではなかろうか。

ガドットはイスラエル支持を公言しており、現実の撮影現場でも妨害に遭っている。
2025年にはロンドンで「The Runner」の撮影を妨害したとして、親パレスチナ派の抗議者が逮捕された。

映画のなかでも妨害され、現実の撮影でも妨害されたわけだ。

ただ、それが映画の緊迫感やクオリティに良い影響を与えることはなかった。
批評家の評判も芳しくなく、(元ローリングストーン誌の映画評論家)ピーター・トラヴァースなどは、一緒に見ようと誘われても「絶対パス」と断れ、とまで評している。

観光地などで、レギンスを穿いた外国人を見かけることがある。
お尻の形がそのまま見えるようなやつである。
日本では腰回りを隠す人も多いが、欧米の観光客は気にせずそのまま穿いている人をよく見かける。

走るガドットの画像を見たとき、それを期待して見た。
冒頭で言ったとおり、そんなものはなかった。

考えてみれば、マリリン・モンローにしてもシドニー・スウィーニーにしても、われわれが抱いている「性的なスター」というイメージほど、いつも映画の中で露骨な格好をしているわけではない。
ネットを開いたときに出てくるバナー広告のほうが、よほど煽情的だったりする。

スクリーンのなかの人物は、われわれの妄想を仲介することで、性的な魅力が補完されるのだ。想像のガドットは甘かったが、映画のガドットは硬かった。

IMDb4.1、RottenTomatoes9%と35%。

怪物はどんな顔をしているか ガール・ウィズ・ニードル (2024年製作の映画)

3.6

昔ポッパーズMTVというPVの紹介番組があった。ピーター・バラカンが解説者で、ベストヒットUSAの玄人版といった感じ。わたしは毎週それを見るのが楽しみだったが、何かと後回しにされる番組だったので、眠気との戦いでもあった。
ポッパーズMTVを御覧になっていた方ならわかると思うが、ゴドレイ&クレームと言えば、当時もっとも先鋭的なPVディレクターだった。10ccを脱退した二人によるデュオだったが、一風変わったPVづくりが得意で、やがて人の曲のPV製作も手がけるようになった。音楽的にも、個人的には10ccよりも好きだった。

ゴドレイ&クレームに「クライ」という曲がある。PVも彼らが手がけた。
モノクロ画面で、次々に違う人の顔が重なっていく様子を撮っている。前の人物の残像を残しつつ変わるので、重なって見える。それだけのシンプルなPVだが、当時は面白いPVだと言って紹介された、と記憶している。そしてなるほど面白いなと思って見た、とも記憶している。
今見ると、なんでもなかった。

ガール・ウィズ・ニードルの冒頭に、まさに「クライ」のような映像が使われていた。
ただし、クライよりもずっといびつで、グロテスクに撮ってある。
この歪む顔のモンタージュは、カロリーネの旦那であるピーターの顔面損傷を予告し、また人の心の中にいる「怪物」についての予兆にもなっている。

苦しんで産んだ子供を、どうするのかわからないような人に、預けざるを得ない貧しさや風潮が映画を暗くしているのは間違いない。
ただ、この映画の暗さをさらに深くしているのは、ピーターの顔面損傷と発作を通してしか見えてこない、戦争の存在だと思う。

第一次世界大戦の前線とはどんなところだったのか。
ピーター・ジャクソンが監督したThey Shall Not Grow Old(2018)というドキュメンタリーがある。
『スタッフは200人の退役軍人の600時間のインタビューと100時間のフィルム映像を精査して映画を作り上げた。(Wikipediaより)』
舞台は1917にも描かれていた塹壕。
泥まみれ。食べるのも排泄するのも眠るのも塹壕だ。
大量発生するシラミやネズミ、腐敗した水、足が腐る「塹壕足」。
ときどき毒ガスまで撒かれる。
突撃となれば、機関銃と砲火の中を敵陣まで走らされる。
そんなところにいたら三日以内に発狂する自信がわたしにはある。

顔面を損傷し、サーカスの見世物になったピーターは、おぞましさの誇張を目的とした人物ではない。当時は悲惨な戦場を生き延びた傷痍軍人が多数存在し、とりわけ補綴で顔を覆う者をフランスでは gueules cassées(壊れた顔)と呼んだそうだ。

すなわち、顔をえぐられ、ときどき前触れもなく赤子のように泣き叫ぶピーターに、いったい彼は何を経験してきたのだろうと思いを馳せることによって、映画は陰鬱さを増している。
しかし、映画が描く「怪物」はピーターではなかった。表向きは里親あっせんをしていたダグマーのほうが、怪物の名にふさわしい。
何人もの子を手にかけたあげく、法廷では、自分は社会ができないことを代わりにやった、表彰されてもいいくらいだ、とまで開きなおる。
だが、その開きなおりが単なる狂人の屁理屈には聞こえない。そう言わせるだけの社会と時代があり、Trine Dyrholmもまた、それを本気で信じているような顔をしていた。
カロリーネが一時ピーターを捨て、ダグマーを信じたことにも、無理はないと思えた。

しかし最後はピーターと和解し、エレナを養子に迎えた。人の中にも社会の中にも怪物はいる。それでも最後に、大切な人を守る側へ戻ったのは嬉しかった。
社会問題を上質なホラーの空気で包んだ、社会派のRobert Eggersといった感じ。
カロリーネ役のVic Carmen Sonneは、とくに眠そうな三白眼がよかった。あの虚ろな目だけで、この世界に半分見切りをつけている女に見えた。
IMDb7.5、RottenTomatoes93%と84%。

距離と時間と感動の関係 ロングウォーク (2025年製作の映画)

3.2

募金集めのテレビ番組で、著名人が長い距離を走るという企画がある。昔からなぜ走るのか理由が知りたかった。およその理由はわかる。おそらく、長い距離を走るのはたいへんなので、汗まみれの走者を中継することで視聴者が「がんばれ」という意識になって、募金しようという気持ちにつながる、ということなのだろう。感動を演出して、財布のひもを緩ませる、と言ってもいい。

映画ロングウォークは、言ってみれば募金集めテレビ番組でおこなわれるチャリティーマラソンの映画版といえる。
例の番組の第一回目は1978年で、その翌年1979年にスティーブン・キングがロングウォークを発表した。しかしマラソンが始まったのは1992年の間寛平からだそうだ。残念。
スティーブン・キングが日本のチャリティーマラソンからロングウォークを思いついたとしたら、どんなに楽しかっただろう。

1970年代を思わせるものの、どこか時代の曖昧なアメリカ。
ロングウォークはそんなアメリカを舞台とした、国民を鼓舞し、生産性を高めるという名目で毎年行われる、国家主催の競歩コンテストである。
「毎年、競歩の後は生産性が急上昇だ」とレース前にルーク・スカイウォーカーが言って参加者を激励するんだ。

トレーラーを見たとき「歩くのをやめたら、殺られるんだな」がわかり、その印象が、映画を見た後もあまり変わらなかった。
ただし、突飛な設定だから、最初は面白い。
冒頭、女子のエントリーはいないんだなと思った。が、道々そのへんで排泄しなければならない競技なので、映画的にも女子版はいろいろ面倒そうだ。そこは察しておこう。
参加者はバラエティを揃え、主人公といい奴といやな奴、無口な奴、胸糞事案や感動事案を折り込みながら、歩き続ける。ジョジョ・ラビットもいたけれど真っ先にやられちまった。
問題はワンイシューすぎること。ルールを説明した時点で、何をする映画なのか、全体像をほぼ理解してしまうことだ。大きな展開も謎もない。ただ歩き、誰かが死に、人数が減っていく。それを108分持たせなければならない。だからこそ、キングがこれだけで長編を書いてしまったことの異常さもわかる。

英語のウィキに、『1988年、ジョージ・A・ロメロが映画化の監督候補に挙がったが、実現には至らなかった。2007年までに、フランク・ダラボンが小説の映画化権を獲得した。』と、あった。
だから、ひょっとしたらずっと前に作られていたかもしれない映画だった。映画化する側からすれば「これでどうやって長編映画一本を持たせるんだ」という難題もあったんじゃなかろうか。

出版こそ1979年だが、キングはこれを大学一年だった1966年頃、書き始めたそうだ。彼が最初に完成させた長編小説とされている。
着想の一つには、1960年代初頭にアメリカで流行した50マイル・ハイクがあったらしく、自身も20マイルで脱落した経験があったそうだ。
登場する青年たちは、ときとして、『スタンド・バイ・ミー』の少年たちの友情や、歩きながら少しずつ互いを知っていく旅の感触が重なるところがあった。
撮影は過酷で、主役のクーパー・ホフマンとデヴィッド・ジョンソンは、それぞれ累計約560キロを歩いたという。

自分の視聴範囲内でいちばん似ているのは『ひとりぼっちの青春』で、ホレス・マッコイが1935年に書いた小説を、1969年にシドニー・ポラックが映画化した作品である。
賞金のかかったダンス・マラソン大会で、それは1時間50分踊って10分休憩し、昼夜ぶっ通しで踊り続け、最後に残った者に賞金が与えられる、というもの。
まだ、映画慣れしていない昔、疲弊してぼろぼろになっていく参加者、それを見て狂喜している観客を見るのは恐ろしかった。
トラウマチックな体験といっていい。

歩けば歩くほど人が死に、悲惨さと悲愴感が増す。そして悲惨になるほど、映画はそこに友情や感動を盛ってくる。見終わって、結局またチャリティーマラソンを思い出した。
「ツー」は女子編にしてポール・バーホーベンに撮らせたい。国家のプロパガンダと流血とエロティシズムを全部盛りにすれば、国民の生産性はもっと上がるだろう。ロボコップより当たるんじゃなかろうか。

偽物を信じ、本物を知らなかった男 緋色の街/スカーレット・ストリート (1945年製作の映画)

4.0

老齢の男性が、若い女性に熱を上げる。
その現象や末路を、ニュースなどで見ることがある。

男性が若い女性を好きなのはわかる。女性だって若い男性のほうが好きなことはあるし、若い人だって基本的には若い人のほうが好きだろう。

ただ、このバランスはときどき財力や魂胆によって曖昧になる。裕福な男性は金の力で若い愛人を持つことができるし、夜職嬢は本心を隠して、男性から好意や金を引き出す。

『緋色の街』が作られた1940年代にも、金のある年長男性と若い女性という組み合わせは、少なくとも映画の中では成功者の記号として違和感なく置かれている。

じっさい本作の冒頭、雇い主が若い女を車に乗せて去るのを見た主人公は、「若い娘に愛されるとはどんな気分だろう」と、これから始まる物語を匂わせる言葉を漏らす。

現在、年齢差のある恋愛そのものは、双方が成人で自由に同意しているなら、それだけで非難されるものではない。少なくとも表向きは。
内心は違う。
年の差のある男女には人々の興味が集まる。
そして男は、ときどき純愛を信じる。
どんだけバカなんだ男よ、とも思う。鏡を見ろ。いや、それ以上に相手を見ろ。自分に都合のいいところだけを見るな。

この映画には、女が男を騙していたことがバレたときの、定番ともいえる場面がある。
クリスは、キティが自分と結婚してくれるだろうと思い込んで彼女に会いに行く。しかし、そこでジョニーとキティが抱き合っているのを目にし、自分が騙されていたことを知る。
それでもクリスは諦めきれず、キティに結婚を申し込む。
キティはクリスを年老いて醜いと嘲り、笑う。
激怒したクリスは彼女を刺殺する。

クリスを演じるのはエドワード・G・ロビンソン。キティはジョーン・ベネット。
言わば「意識高い系のジェームズ・キャグニー」のような位置にいて、ギャングや強面の男で鳴らしたロビンソンが、ここでは気弱で世間知らずの小男を演じている。
ジョーン・ベネットは、ファム・ファタールとして脂が乗っていた時期だった。

映画はけっこう複雑なストーリーを持っている。
要約すると――
若い女に恋した孤独な中年男が、金も才能も利用された末に彼女を殺してしまう。しかし別の男がその罪で処刑され、殺された女は男の絵によって天才画家として名声を残す。唯一真実を知る男だけが法の裁きを免れながら、良心と狂気によって生涯罰せられ続ける。

そんな倒錯した犯罪悲劇である。
恐妻家で、真面目だけが取り柄の出納係クリス・クロス。ささやかな趣味は絵を描くことだった。
『緋色の街』にあるすべての間違いのなかで、たったひとつ真正だったものがある。
絵である。

クリスの画力だけは、本物だった。
映画に登場する絵は、当時ハリウッドで活動していた画家John Deckerが描いたものだという。
錯乱したとはいえ、真犯人であるクリスは捕まらない。ジョニーは冤罪のまま処刑される。
その不条理と非倫理性が衝撃的な『緋色の街』だが、私は、自分の持っている本当の才能を生かすことも、本人として褒められることもなかった、寂しい男の話でもあると思った。
ラストでは、クリスの描いたキティの肖像画が、裕福な夫人に一万ドルで買われる。
かつてなら狂喜したであろうクリスは、そのそばを通り過ぎていく。
気づいているのか、いないのかさえ、よくわからない。
誰も彼のことを知らない。

男は、たとえ老齢になっても、馬鹿でもいいと思う。
ただ一つ、己のことさえ解っているならば。
クリスは、自分について何も解っていなかった。
自分がキティに愛されていないことも、自分が彼女にとってどんな男なのかも解らなかった。
その一方で、自分に絵の才能があることまで解っていなかった。

毎日ニュースやSNSを見ていると、自分が何者なのか自覚していない人を、ずいぶん見せられている気がする。
男は一度くらい、好きな女が自分のものにはならないという絶望を味わったほうがいいのかもしれない。
一般的に考えれば、「僕は死にません、あなたが好きだから僕は死にません」と言ってトラックの前に飛び出せば、轢かれて死ぬだけだ。
それ以外の結果は幻影である。
男が何をするためにこの世に生まれてきたのかといえば、案外、女に好かれない寂しさに耐えるためなんじゃなかろうか。

IMDb 7.7、Rotten Tomatoesは批評家100%、観客87%。

 

ドライビング・ミス・デイジーにホラーを足すな TOKYOタクシー (2025年製作の映画)

3.0

老女の身の上話を、タクシー運転手が聞かされるという話である。

運転手の宇佐美は聞き役だが、映画を見ているこちらも、ほとんど同じ立場に置かれる。少し距離をとって眺める場所がなく、老女・高野すみれ(倍賞千恵子)の人生を、観客も一緒になって聞かされる。

語られるのは戦争と戦後、そして当時の女性が置かれていた境遇である。
「あのころ、日本じゃ夫が妻や子供を殴るのは当たり前だったの」という台詞もあった。

すみれの来歴は壮絶であり、気の毒でもある。
ただ、『パリタクシー』のリーヌ・ルノーには、鉄火肌で乾いたところがあった。壮絶な過去を語っても、本人まで「不憫な老女」に見えすぎない。そのサバサバ値が、むしろ彼女の不幸を浮き彫りにしていたように思う。

一方、倍賞千恵子は、たとえば田中絹代のように、「不憫に見えること」を得意とする華奢な女優だと思う。

山田洋次監督の『遙かなる山の呼び声』(1980)で、北海道で女手ひとつで酪農を営む未亡人・民子(倍賞千恵子)を、従弟夫婦が訪ねる場面がある。
夫婦役は武田鉄矢と木ノ葉のこ。博多から新婚旅行がてら車でやって来たのだった。
帰りの車の中で、武田鉄矢が涙をこぼしながら、ぽつりと言う。

「なんか、可哀想なんだよな、あの姉さん」

そう、倍賞千恵子は「なんか可哀想」なのだ。
可哀想に見えてしまう女性に、さらに不幸な身の上を延々と語らせたら、聞かされるほうは疲れるでしょうよ、という話である。

すみれは在日二世の男性と親しくなり、妊娠する。しかし彼は北へ旅立ってしまい、その後、身体目当てに近づいてきた男に迫られて結婚する。
このあたりの善悪の描き分けも、やや図式的に感じた。

ところで原作の『パリタクシー』には、同調できない過激描写があった。
マドレーヌは暴力的な夫の下半身をガスバーナーで焼くのだ。
『TOKYOタクシー』も原作の強烈さを引き継いで、煮えたぎった油を下半身に浴びせる、という復讐をさせた。
個人的には、股間をガスバーナーで焼いたり、煮え煮えの油をかけたりする場面は、ホラー映画でもあまり見た記憶がない。

つまり『パリタクシー』と『TOKYOタクシー』の双方に言えるのは、ドライビング・ミス・デイジーにホラー描写を付け加えてはいけない、ということではなかろうか。
気難しい老女を乗せ、車中で話をするうちに少しずつ打ち解けていく。
それだけで十分に成立する王道の題材なのに、なんで股間を焼いたり、揚げたりするんだよ。という話。

すみれと宇佐美の間に、やや恋愛めいた気配が漂ってくるのも、好きではなかった。
ここまで、偶然出会った老女と運転手という他人同士が、一日のあいだだけ少し親密になる話として見ていたので、男女の気配まで加えられたことで、すみれさんの人物像が矮小化して見えた。
倍賞千恵子さんが悪いわけではないが、この役ではどうしても彼女本来の「いじましさ」や「不憫さ」が前に出る。
わたしはそれが、この映画では逆効果になっていたと思う。少なくとも、すみれ役についてはミスキャストに感じた。

笹野高史は、いつもながら上手だった。
妻役の優香は、かなりベタな芝居をする。演出としてそう求められているのだろうが、ときどき新喜劇のように見えるほどベタだった。ただし話が全体に陰鬱なので、そのベタさが逆に清涼感になっていた。

山田洋次、倍賞千恵子、木村拓哉という名前だからこそ、この映画のヌルヌルしたいじましさも味として受け入れられているところはあると思う。
が、わたしには、不幸も、台詞も、感動させようとする圧も、少し盛りすぎだった。話にも台詞にも、かなり疲れた。