津次郎

なんか書いた

完全なるイミフ、noteにおけるフォローとフォロワーとスキの形骸性

(この文には不見識や勘違いが含まれているかもしれません)

noteというブログサービスがあります。
わたしは2017~2018年に1年ほどやりました。
さらに2021年に1月から1ヶ月半ほどやりました。
「note、会員数100万人、月間アクティブユーザー1000万人を突破」という2019年の記事が今もネットにあります。
その約一年後2020年11月17日付けの日経記事に「LINEに迫るメガメディアへ 「note」利用者急増で6300万突破」とありました。

二つの目ニュースの6,300万人はアクティブユーザー数です。noteは利用者が爆増と喧伝されておりますが、2019年が会員数100万人で1000万人のアクティブユーザー数とすれば、現状(2021年)の会員数は630万人~700万人くらいなのだと思われます。確かにすさまじい増え方です。

2020年にIPアドレスの漏洩がニュースになり、そのほかに3つの炎上騒ぎがあったそうです。IPアドレス漏洩は一般ニュースになったので知っていましたが、炎上騒ぎについてはまったく知りませんでした。2021年2月に短期間ながらまたnoteをやったことで炎上騒ぎのことを知りました。

今回やってみて気づいたのはフォロバ100とみんなのフォトギャラリーです。
プロフィールにフォロバ100とのキーワードが入った人が大量にいました。意味はフォローバック100パーセントで、フォローするとフォローを返して(バックして)くれます。
はじめたばかりでフォロワーが0人のみっともなさを、即日解消できるのがフォロバ100です。じっさいわたしもフォロバ100の人たちにフォローすることで、noteでブログを初めて数日後、いや数時間後にはフォロワーが100人に達していました。
ブログを初めると誰もいない初動期間が苦痛なものですから、ナンセンスな形骸性にもかかわらず、とりあえずベンリだなあと思ったのは確かです。

note内ではいいねがスキと呼ばれますが、おそらくフォロバ100の人たちは、フォロー扶助と同時に、お互いの記事に対してスキも付け合いましょうと示唆していたはずです。誰がどの記事にスキをつけたのか、わかるのでスキをし合って扶助することができます。

個人的にいいね(スキ)とはいいと思った記事にするものだと思っていたので、人様の記事にスキをしませんでしたが、スキをしないでいるとフォロワーを何百と抱えながら、非稼働ブログのような感じになります。そりゃそうですよ。だってフォロワーはただのフォローバックなんですから。わたしに1ミリのきょうみもありません。だいたいわたしだってフォロバ100のキーワードを持っている人を機械的にフォローしただけで、誰にフォローしたかなんて確認さえしてません。
とりあえず困ったのはスキは人様へスキをした返礼でしかないため、これだと自分が書いた記事が面白いのか面白くないのか、わかりません。
個人的にブログを書いていていちばん知りたいのはじぶんの文はいいのかわるいのか、です。過酷なコメントをされたくはありませんが、せめていいねの有無や多少によって添削されなければブログを書く意味がありません。ばかなわたしでもさすがにフォロバ100の空虚に気づきました。

ただしFilmarksも同様です。映画レビューで使っているFilmarksでもフォローとフォローバックといいねの共有は日常であり、扶助の方法論がまかり通っている世界です。
Filmarksのトップページにある「ユーザーを探す」をクリックすると人気ユーザー50人というのがでてきます。何千何万とフォローすることでフォロワーを稼ぎ、人様のレビューにいいねをつけまくっていいねを稼いでいる50傑がそこにいます。
かれらがレビューを書くと盲目的に数百個のいいねがつきます。50傑は巡回していいねをトリクルダウンし相互扶助が完成します。
自分がフォローしている人が0または数人で、フォロワーが数千人もいるひとも存在していますが、自作自演ではないかと思います。(因みにこれは憶測であり正しい情報ではありません)Yahoo映画にもひとりで数千アカウントを保持している猛者がけっこういました。よく解りませんがアカウントは購入できるものだと聞いたことがあります。

今回noteをやってみて、気づいたのですが、フォローもフォロワーも数百の規模があり、詳細なプロフィールもありながら、記事が一つもないひとたちがけっこういました。noteには自動的に巡回し人様にフォローやスキつけまくるbotがあります(それを説明しているサイトがあったので知りました)。そんな虚構のなかでは、アカウントの売り買いがあるのも容易に信じられます。
こういったゼロサムゲームに夢中になっていいのは、なんらかの稼ぎを得られるばあいです。それも収入の高低によります。一日中ネットの海を掘り続けて月収1万ならばどうかと思います。時間をかけず2万ならば、いけるかもしれません。月2万の収入がいいかわるいか、考え処ですが、よのなかトップバリューのひととじぶんを比較すると、みょうなことになります。われわれはかならずトップバリューの人々や数値と比較するという粗忽をやります。

noteには、かならず、じぶんがnoteをはじめて一週間でこうなった、一ヶ月でこうなった、半年でこうなった──とPVや収入を披瀝する人たちが一定数います。それらの下請けの扇動員みたいなのとじぶんを比較してはいけないと思います。noteのPVがプロモーションビデオの頭文字に過ぎないってことは、もはやわたしですら知っています。
そもそも月30万円の不労所得が、一朝一夕のはずがありません。個人的には、2万でそれが副収入ならば、ちょっとしたもので可能性に満ちた値だと思います。間違っていたらすいません。

noteに数日間いてフォロバ100のポンコツ度と、まともなクリエイターたちの流出を感じ、空虚になりましたが、ひとつだけみんなのフォトギャラリーという、個人的には画期的と思えるサービスがありました。noteの利用者がじぶんが撮ったり創ったりした画像を、ご自由にお使い下さいと置く場所──です。
ブログ記事に画像をつける──ブログやっている人は当たり前ですが、個人的にこれが、億劫でなりませんでした。どうすればいいのかも、よくわかりませんでした。フリー画像を貼ったり、画像を買ったりすればいいわけですが、公人でも公的でもないじぶんの記事に外国人がうつっているフリー画像つけるのが妙な感じでした。
どれだけフリー素材感があろうとも画像つけなけりゃブログはムリと知っていましたが、それでもやはり億劫でした。
みんなのフォトギャラリーはそれをさらりと解消しています。インターネット上のフリー素材を使えば、どのブログサービスでも解決できる問題かもしれませんがnoteのみんなのフォトギャラリーは内部にありワンアクションでした。

noteの一連の炎上騒ぎが、運営の成長の証しと、捉えている人たちが一定数います。
個人的な見識ですが、そんなはずはないと思います。
2000年に雪印集団食中毒事件というのがありました。「寝てない」発言で有名な事件ですが、加工乳の工場では家庭のようなことをやっていました。
「ねえこれ消費期限過ぎちゃったけどどうする」「なあにまぜりゃいいさ」
牛乳は殺菌何度何秒とか、記載されているものです。それがうそで日常的な改ざんや偽装をやっていたことが明るみになって、世間に衝撃を与えたのでした。

1999年に東海村JCO臨界事故というのがありました。核燃料を扱う施設にもかかわらず、作業員たちがやっていたことは農村の肥料汲みのようでした。
作業員らは、マニュアルを無視して、ステンレス製のバケツをつかってウラン化合物の粉末を溶かしていました。さらに効率化をはかるためマニュアルの無視度合いを進化させてもいました。作業員は「ウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」(byウィキペディア)と証言したそうです。その手前のセリフは紹介されていませんが「いっぱい汲んできたど」と言ってウランバケツを前にして「さあてやんべ」と励まし合ったにちがいありません。
JR西日本福知山線脱線事故も人的ミスでした。

端からどんなに厳格に見えても、体勢がいびつな負荷を生んでいるところは崩壊します。デタラメをやるところはさらにデタラメをやります。それは歴史が教えてくれます。note関連の3つの炎上は「いくらなんでもそんなことはしないだろう」というあの事件たちの肌感がありました。noteおよびcakesの炎上の内容については検索すれば、雪崩のように出てくるので割愛しました。
横文字を使ったIT企業はけっこうスカスカしている──とは偏見ですが、あんがいそれが裏付けられてしまうものです。この「うさんくささ」を表現するこんな記事も書きましたのでお読みいただければ幸いです。

vulnerable9115b.hatenablog.com

ブログの目的

映画一作品にたいする感想・レビューではなく、映画がからんでくるエッセイにしようとしている痕跡を感じ取っていただけたら嬉しいです。映画関連エッセイのほか、時事ネタや日常で感じたことなども書いておりますが、自分が読んで面白くないことは書いておりません。読者は自分しかいないので、人様にとって面白いかどうか、わかりませんがお読みいただければ幸いです。

インターネット上で、映画とライターが隣り合っている肩書きをよく見かけます。
そんな肩書きを持った人の文を読み「これおれもできるんじゃねえかな」と思ってしまったのがブログをはじめたきっかけです。

そう「思ってしまった」のがたんなる勘違いだとしても、誰からも一円も貰っていませんのでご安心下さい。

ただし映画のレビューを書いてお金をもらっている人は、その感性が澄んでいるから、あるいは文章が巧いから、それを成し遂げられたわけではないと確信しております。

わたしは一般人で映画に詳しくはありませんが、日本映画は黒澤や小津といった巨人を除けば、戦前戦後70年の無風状態なのではないかと感じております。

そして日本映画がダメなのは、映画を批評してお金をもらう出版社が権力をもっているからだと思っています。
(ちなみにこれはわたしの憶測に過ぎず、正しい情報ではありません)

“~旬~”や“~宝~”のような長い歴史をもつ出版物とそこに群がる人々が、映画に高評価をすることでお金をもらえる仕組みをつくり、日本映画界を製作と批評が一体となった“大きな内輪”にしてしまったのが、日本映画界が腐敗した原因です。
(繰り返しますが、これはなんの根拠のない、たんなる憶測です)

基因は~氏です。日本の文芸全般にたいして巨大な権力をもつ彼が、映画について批評を述べたばあい、それは「ありがたいおことば」として崇め(あがめ)、奉らな(たてまつられな)ければならなかったはずです。その慣習が、そのまま、~旬~などの映画出版物の権威となって受け継がれ、映画産業が冷えても映画批評家が食える仕組みが確立したのです。
その結果、製作と批評は、お互いを扶助し傷をなめあい一般庶民からの辛辣な批評を蹴って「天才と鬼才だらけの日本映画界という内輪」をつくりあげてしまったのです。
(三度繰り返しますがこれは妄想です。デタラメです)

この世のなかに、映画を見て感想を言ってお金がもらえるシステムがあると思いますか?あるならば、おれも・わたしもやりたいって思いませんか?
条件は学歴です。この潮流は東大~氏の権威がつくりあげたものですから、そこは完全な権威主義です。偏差値の順番でなりやすいはずです。顔が良ければなおいいです。逆に学歴がなければ、どんなにいい文を書いてもなれません。

また、そもそも映画とライターが隣り合っている肩書きの職業とは、いわゆる映画批評家ではなく、製作会社もしくは出版社から依頼をうけて作品を称揚する、いわば太鼓持ちです。
どんな文を求められるか──といいますと「好きなことを書いている体」です。
じっさいは「褒めろ」と厳格な依頼を受けていますが、都市生活を匂わせる喧噪の息吹や、自由に生きているまったり感などが文中に感じられなければなりません。横文字と洒脱なイラストに隣接する文章ですから。指示通りの文でありながら見え方は「好きなことを書いている体」がライター職の絶対的特長です。
とはいえそれは形骸なので簡単なことです。
作品を賛美することと自分を素敵なライターに見せることが出版社の意向であり、本心も文章力も要りません。内容も魂も要りません。ただし、それがどれだけ無意味なシゴトであろうと、映画の感想を書いてお金をもらうという奇跡には違いありません。

子供の頃、オリンピックで勝ったひとはいちばん強いと思っていました。学生時代も、ノーベル賞とったひとは、あたまのいいひとだとおもっていました。それらはあながち間違いではなかったのですが、おとなになるほど、じょじょにものごとの利権構造が見えてきます。新聞やテレビは言うまでもありません。
──学歴がなければ、どんなに言い分を書いてもなれません。と前述しましたが、それも利権だと思います。利権構造の受益者でなければ何やっても無駄です。できるのはせいぜいブログぐらいですが、ブログにも肩書きや権勢が必要です。顔が良ければなおいいです。

逆に肩書きも権勢も何もないわたしは、一円も儲からない代わりに、けなすことができるので権威主義的な出版物が絶賛する日本映画を、けなしたいと思っています。が、もちろん、なにがなんでも闇雲にけなすわけではなく、クオリティに因ります。他の文を書くときもありますが、おそらくそれがブログをやっている目的です。

寒いので壁紙をハワイにしました。

有名人は、じぶんが何が好きなのかを公表できる。
聞かれるから、それが言える──構造がある。
一般庶民は、何が好きなのか聞かれないから、公表できない。
その、そこはかとない鬱憤が、SNSやブログや映画レビューの動機になっている──と思う。
とはいえ、何が好きか聞かれ、エンタメニュース等で報道されるのは人気者や超有名人だけである。

あまり有名でない人のほうが、自らの売り込みを兼ねて自分の好きを押し出してくる。
昔っから、ハワイ大好きっていう人が一定数いる。
セレブや芸能人にとても多い。
じっさいセレブや有名人は、年末年始など恒例のごとくハワイへ飛ぶ。
日本人にとってハワイ休暇は、成功者や小金持ちのステイタスシンボルでもある。

わたしは、ハワイ好きっていうのを見聞きするたび、ハワイが嫌いな人っているんだろうか?と思う。
有名になると小金ができる。
されどすごく有名なわけではないから暇もできる。
そこでしょっちゅうハワイに行く。
日本とハワイのコントラストは刺激的なものだ。
まさに別世界である。
だから、むしょうにハワイの魅力を喧伝したくなる。
それでハワイ大好きを掲げる人が後を絶たない。
100%が若い女性だ。(例外はありませんw)

万人に好かれているものがある。
ラーメンやディズニーやダイエットなど。
万人に好かれているものを好きと言ってしまうと、安直な人に見えてしまうことがある。
だって、みんなが好きなんだから。
浅はかだし芸がない。
浅はかで芸がなくても、誰もが享受できるものなら、親しみやすさを表明できる。つながることもできる。
ハワイも万人に好かれるものだと思う。
しかしそれを好きと言うのはいいとしても、ハワイに行くには時間とお金が必要になる。
誰もが享受できるものとは言い難い。

庶民にとってハワイは金繰りと休暇繰りを何年もやって、やっと行ける楽園であり、その頻度に照らし合わせたら「好き」はないかもしれない。
人生で一二度行ったことしかないのに好きと言ってしまうのが不自然だからだ。「憧れ」のほうが適切である。

そんな庶民にしてみると、ちょくちょく楽園へ行けちゃってる人はトクベツな人にしか見えない。「憧れ」を何度も享受してる人は、親しみやすい人ではなく「憧れ」る人である。→好意的にとらえるならば。
畢竟、ハワイ好きの公言は自らの優位性を誇示してしまうことがある。

巷には、ハワイの魅力を伝える、特集や記事やメディアが山ほどある。本でもサイトでも動画でもいい。発信者を見るとそれは間違いなく若くてきれいな女性だ。
おっさんでも子供でも老人でも誰でも、あったかくて、食い物がうまくて、きれいなハワイは好きなところにちがいない。だけど大橋巨泉島田紳助つんく、あるいはほかの在住の男性がハワイの魅力を喧伝──そんなの見たことも聞いたこともない。
人々は不文律「ハワイは若い女の人が好きと言っていい場所」を持っている。

たしかに現地の代理店スタッフや案内人やアトラクション世話係の、若い女性に対する態度と、「おまいら」に対する態度には、天と地ほどの隔たりがある。リゾート地で人は開放的になるし落としやすい・落ちやすい環境なのはまちがいないだろう。しかしいくらなんでも土地の魅力を伝えて商売にする人が、ちやほやされたことでハワイ好きになるほど短絡だろうか。

とはいえ発信する女性は、まず、みずからのステイタスバリューがハワイ好きを公言することに適合しているとの確信がある。「憧れ」をちょくちょく享受できるトクベツな人というトクベツ視に耐えうることも知っている。そしてもちろん、自分はハワイ通であるとの自負がある。短絡か短絡でないかといえば、どちらかといえば短絡なひとの処世になるかもしれない。

すると、構造としてはハワイのいいところ、美味しいお店、穴場スポットの紹介の体をしていながら、じっさいはハワイ好きなじぶんアピールのエレメントが勝ることは免れない。現実に若い女性しかやらないのが証左でもある。ならばむしろ水着の写真集と抱き合わせでいいほどであって、このニッチ市場を満たす条件とは、写真集をだすほどじゃないけれど、そこそこ若くきれいで教養ある女性Such As:キャビンアテンダントの転職、ファッション系ユーチューバー、著名ブロガー、リアリティショーの出演経験者、クラブのちいママ、モデルやタレントくずれなど。彼女らは一様に「ハワイ大好き」を謳ってみるのだが、とうぜんそこも激戦地である。だって誰もがハワイが好きなんだから。というわけで抜け出た人は、わりと有名かもしくは金を持っているかのどちらかになるが、もちろん誰が伝えるハワイもまったく同じであるw。

ところが、新型コロナウィルス禍下にあって、ハワイが叶わぬところになってしまった。ニッチな市場から急速に冷える。ハワイの魅力をつたえる若い女性もついぞ見なくなった。「けっ」と思わせるし、小憎たらしいが、同時になんとなく負けるもんかと思わせてくれた彼女たちを見かけなくなって寂しい。
禍が明けたらハワイに行きたくても、その経済的体力も失った。あのまぶしい陽の世界へまた行けるのだろうか。

リアルで楽しいアメリカの学校と、その裏にそびえるボウリングフォーコロンバイン。学園ドラマに国の良心が見えるとき

ハリウッド映画によって世界じゅうの人々が「アメリカの学校」を知っている。
机と一体型のイス、ロッカーが並ぶ幅広な廊下、騒々しい学食。
ブレックファストクラブ、クルーレス、ヘザース、ミーンガールズ、イージーA、ウォールフラワー、僕とアール、スウィート17モンスター、エイスグレイド、ブックスマート・・・。

私たちが愛するアメリカの学校。
体育会系ないじめっこの一団や、プリンセスな女子が廊下を闊歩し、主人公がロッカーをあけるとゴミが落ちてきて、やれやれって感じで肩をすくめたら、人のよさげな友人が寄ってきて、きれいで性格もいいヒロインとニアミスをしているところを、イケメンだけど意地悪な顔つきをした恋敵に見つかって、ぐいっと首根っこをつかまれて、バシっとロッカーに背中をたたきつけられたところをヒロインに救われる──場面から始まる、あのアメリカの学校。の映画。

さんざん見てきたそれらの景色。典型や類型。人種。(ブレックファストクラブ風に言うなら)BrainとAthleteとBasketCaseとPrincessとCriminal。その行動パターン。映画好きのわたしたちはアメリカの学校のことを、およそなんでも知っている──気がしている。

ところで実際のアメリカの学校を見たことがあるだろうか?思い当たる画はありますか?──映画ではない現実において「アメリカの学校」が映し出される──とすれば定期的におきる銃撃事件のニュース映像だけである。現実の「アメリカの学校」の生徒に遭遇するのも、その映像の一角で怯えて抱き合っている人々だけである。

すなわち、すべての「アメリカの学校」映画の反対側=カウンターに位置しているのはマイケルムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」だと、わたしは思っている。学園ものの裏側。あれらの映画群の外伝と言ってもさしつかえない。

ボウリング・フォー・コロンバイン」はマイケルムーアを一躍時の人にした、突撃取材映画第一弾であり、コロンバイン高校銃乱射事件(1999年4月20日)のドキュメンタリーだった。
この映画を見た当時も今も、わたしがもっとも心に突き刺さっているのは、不謹慎アニメーション「サウスパーク」の作者、マットストーンのインタビューである。
かれの発言を聞けば「アメリカの学校」の真実が氷解する。
マットストーンは事件の近くで育ったことからインタヴューを受けている。
彼はインタビューにこう答えた。

『ダサい町の真ん中にあるダサい学校だった。──町全体も学校も苦痛なほど恐ろしく平均的だったよ。──6年生の時、7年生の数学科に入るテストを受けたんだ。先生に「失敗すると数学科には入れない、今ダメなら8年生でも入れない、9年生でもダメ。結局一生ダメ人間だ」と言われたね。万事がそんな感じだった。生徒間のトラブルにしたって先生もカウンセラーも校長も助けてくれない。模範的な生徒の型にはめようとするだけ、何につけ「いま失敗すると一生負け犬だ」って感じだったよ。──エリックとディラン(事件の犯人)も、イジめられて一生イジめられるんだと思ってたんだろうね。──誰かが(卒業すれば違う現実があることを)教えてやればよかったんだ。落ちこぼれが成功し、優等生が故郷に戻って保険の外交員──そんな逆の現実がすぐ目の前に待っていることを。そういうことは人から教わらないとわかんないもんね』

マットストーンの話の骨子は、学校生活では往往にして自分の置かれている状態がすべてになってしまう──ことの切なさである。
卒業した先に、いろんな未来が開けていても、その渦中にいる者にとっては学校が全世界になってしまう。
ただでさえ思春期、コンプレックスや疎外感に過敏なのに。マットストーンは、その不安や成績が、ぜんぜんなんでもないことなんだよ──と言っているのだ。

あなたは、学校時代、ここでの君は将来の君とは違うから大丈夫と説諭されたことがあるだろうか?
想像できますか?
われわれは、やくたいもない学校教育をへて世へ散って行くが、その只中で、そんな朗らかな助言を聞くことができたら、どんなに心が晴れただろう。

アメリカの学校」の映画に真実があるのは「ボウリング・フォー・コロンバイン」がカウンターに存在しているからこそだと、わたしは思っている。
そこでは、軽重はあれど、つねに異端に悩む生徒が、良心や友情や勇気や親切のなかに溶解することが描かれる。だからこそ世界じゅうの人々から愛されている──のだ。学園から銃撃事件が駆逐される日もきっとくると信じている。

反して、わが国の学園ドラマの定番、リア充うしの恋愛譚は、いくらティーン向けとはいえ、食い足りない。
また岩井俊二亜種にも21世紀の女の子一派にも、“天才”も“鬼才”も豊富に揃っているものの、唯一惜しいのが全員が映画をつくる才能に欠けてるって点。
なにも日本にエイスグレイドやはちどりをつくれなんて言ってません。そんなの100年経ってもむりだから。せめて事実を反映している学園映画があってもいいと思っているだけ。

夢半ばにして去った老兵!嗚呼!涙の交代劇!どこから笑えばいいのかわからないニッポンのオリンピック前夜祭

東京オリンピックパラリンピック組織委員会森喜朗会長(83)は、女性を蔑視する発言をした責任を取り、会長を辞任する意向を周囲に伝えた。11日、複数の関係者が明らかにした。組織委が12日に開く緊急会合で表明する見通し。(2021/02/11毎日新聞より)

ニュースが入ってくると最初の所懐がありますがニュースは変遷します。見え方がどんどん変わります。併せて民心も動きます。人はニュースの進度や理解度によって意見を変えます。それは変節ではなく解像度の調節です。SNSならばニュースに意見するまえ、もうすこし様子を見よう、もうすこし解像度があがるまで待とう──と思うはずです。

ちょっとまえ、試験会場でマスクをしてなかった受験生が失格になったニュースがありました。それに対してとある著名人がツイッターで試験管の対応に苦言を呈して話題になりました。
一般の人は「試験会場でマスクしてなかった受験生が失格になった」というニュースだけを聞いて、試験管の対応に文句つけるほど全恥全脳ではありません。

余談は置いて、SNSとちがってブログでは、むしろ自分自身の意見の変化も記事にできるような気がします。ニュースの直近で記事書いて、あとあとになって、微妙に考えが変わってくること──よくあります。それらを残しておくと自分としても振り返って反省したり、頭掻いたり、我褒めしたり──できると思った次第。最初、会長がやらかしたあとでこう書きました。

vulnerable9115b.hatenablog.com

元来名誉職だとわかっている人を上げたり下ろしたり、空虚を感じませんか?そもそもわたしたちの国は老人だらけです。それをご存じないってことはありませんよね?というわけで併せてこんなのも書きました。 

vulnerable9115b.hatenablog.com

さっそく83歳の会長が辞任し、新しく84歳の会長が就任されたというニュースがありました。こういうニュースって、どこから笑ったらいいのかわかんないロバート秋山のクリエイターズファイルみたいですよね。すでにオチてるのか、オチ続けているのか、あるいはずっと助走しているだけで、もっとデカいオチがあるのか、みたいな。

辞任の理由は世論の高まりが原因ですが、じっさいに抗しきれなかったのはスポンサーの意向だったと思います。やっぱ金だお。
政府もIOCも当初看過していたのに、あとになって「不可避」や「不適切」と、老獪に変節しました。
また後任者が告示されると海外メディアが、その年齢と性別に疑問符をつけました。
それを受け(牽制として)新会長は共同会長として女性を置くとしました。また(忖度として)前会長は相談役に据えるとのこと。

以上が直近の展開です。まだオチてなくて、むしろずっとオチつづけています。シビレるような笑いが紡がれていく、これはグローバルTPS以来の傑作かも。つぎで85歳が来たときにまた書きますw。

ジョンヒューズ映画だけでしか見たことがなくても「あとはいい」と思える俳優、そして珠玉のジョンヒューズ

Jean Louisa Kellyという女優をUncle Buck(1989)でしか見たことがありません。が、そこで見せたバック叔父の姪Tiaがとても印象的で、あとはいい(他のキャリアがなくても大丈夫な立脚地を確立している)のではないかと思えてしまう。──のです。

かえりみれば、ジョンヒューズの映画には「あとはいい」のではないかと思える、褪せない俳優がいっぱいいます。
Molly Ringwald、Anthony Michael Hall、Judd Nelson、Ally Sheedy、Matthew Broderick、Mia Sara、Alan Ruck・・・。
じっさい、ジョンヒューズの「あの役」以外、ほとんど見たことがないのに、幸福な役者人生を見てしまえるのです。

きっとジョンヒューズ映画に出たことは僥倖でもあり呪いでもあったのでしょう。
ジョンヒューズファンならばヒューズファミリーの面々が果報と呪縛を同時に被ったことを、お認めになる──にちがいありません。

Jean Louisa Kellyもそうでした。
Tiaは典型的な反抗期の娘キャラクターであり、濃いメイクにモノトーン、肩までのソバージュ、ネックまたはスカーフで首を隠していました。映画はニルヴァーナがデビューした1987年の2年後、ゴシック系ファッションの全盛期(よりちょっと手前)でした。
いまでこそ、その様態に、珍しさはないですが、わたしが同時代にUncle Buckを見たとき、Jean Louisa Kellyの娘役は、ハっとするほどフレッシュでした。とてもおしゃれだった。おそらくそれも共有された記憶であると思います。

かのじょはゴシック女子らしく、寡黙で、はっちゃけるテンションが嫌いで、明るく屈託のない弟や妹を煩わしい存在とみており、ロクでもない彼氏にむちゅうになっていましたが、背伸びと、幼心もありました。

いわゆる「けいべつのまなざし」がとてもじょうずで、バック叔父がシッターに来てから、ことあるごとに「けいべつのまなざし」を向けます。それは、Jean Louisa Kellyを忘れ得ない女優にするのにじゅうぶんな蠱惑でした。かつては、かのじょを使ったミームをよく見かけたものです。

ジョンヒューズが、せかいじゅうの人々に敬愛されているのは、軽いコメディを重ねて、最終的には、観衆の魂をゆさぶってしまうからだと思います。その魔法はブレックファーストクラブにはもちろんPTAにもフェリスにも本作にもありました。

粗雑で野生だが厚情なバックおじさんはJohn Candyの独壇場で、代表作のひとつでもあります。はちゃめちゃをやっていながら、じつは大きな慈愛を、醒めた家族にもたらし、ラストでは、反抗期の娘を溶かし母親と和解させてしまう──のです。

普遍的なものが平板に見えることがあります。Uncle Buckもおそらく、たいしたものではないとか、とりたてて言うほどのものではないと見られがち、とは思います。ただ設定や展開はともかく、なにげないのに、なぜこうも刺さって五臓六腑に染みわたるのだろう?つくづく魔法だと思います。

ところでUncle Buckが創りだしたと思われるドラマ製作の普遍として「ゴシックファッションによる人物像のキャラクタライズ」があります。
登場・導入でモノトーンのゴシックファッションをさせておくことで、説明なしに「問題児」を表現できます。その後、暖色系の洋服を着せることで、かれ・かのじょが「問題」を克服し「健全」になったことを、やはり一言もなしに表現できます。
この演出上の常套手段をUncle Buckがさいしょにやった──と思うのです。ゴシックファッションにとっちゃとばっちりなんだけどねw。

名曲動画に死んだコメする奴が忌引きを使いすぎる奴とおなじ運命をたどるわけ

スーパーマーケットフラワーズが好きなのでしばしばsupermarket flowers coverで検索します。みんなじょうずです。それはうれしい耳福ですが、コメント欄をながめていると、誰かを亡くしている人が多いことに気づきます。
supermarket flowersは葬儀で定番のように歌われることがあるのだそうです。supermarket flowersの巧い歌唱が亡くなった身内か友人を思い出させるとすれば、そのコメントが並ぶのは合理です。
ただし、概して名曲のYouTube動画には、近しい人の死を語るコメントがつくものです。むしろセットです。(英語圏の曲にたいする話をしています)

何十億回という再生数の名曲においては、コメントでもバズればものすごいバズりかたをします。そしてコメントをバズらせるために、もっとも効果的な手法は死んだコメントです。畢竟、名曲と死んだコメントはセット化しました。

コメント主は、かならずMomかDadかGranmaかGranpaかGrilfriendか、その他の親族を亡くしています。(記述した順で効果的です。)そして生前、彼・彼女は、その楽曲が好きで口ずさんでいた──などと展開します。

わたしは英語があまり得意ではありません。ただし、洋楽厨だったので、じぶんがすり減るほど聴いた楽曲であれば、コメントが本物か偽物か(実体験か創作か)を看破できるような気がします。むろん、どっちであろうと突撃(クソリプ)はしませんし、わたしが正しいとも言いません。たんに「はは~ん」「へえ」「ほうほう」とか思って楽しんでいるだけです。
もちろん、かんぜんな本物もありますが、それは万のサムズアップが付いているので見分けるまでもありません。

わたしが看破できる、いちばんの根拠は「人種」です。
2018年、これを分かり易く説明できる現象がありました。
音楽には住み分けがあります。垣根の向こうをちょっと見れば、それをどんな人種が聴いているのか、ざっくりわかります。今も昔もおなじです。
80年代ごく普通の洋楽愛好者だった人々はBohemian Rhapsody(2018)が社会現象的にヒットした際「あれれ、このにわかQueen信者は、どっから湧いてきたの」と感じたはずです。
その、もぞもぞする懐疑心は、厨二病的なものではありませんでした。すでに皆大人なので、よもや洋楽厨な優越を露呈させようとは思いませんから。もっと素朴なギモンでした。

80年代に洋楽を聴いていた人は、当時Queenを聴いていた人の少なさを知っています。既にQueenとしては後期で、本国の人気度とは、あきらかに乖離していました。まして当時70年代へ遡ってQueenを聴いていたとなれば、よっぽどの求道者かミュージシャンかライターだったに違いありません。(これは憶測に基づいており正しい情報ではありません)
にもかかわらずBohemian Rhapsodyが、日本中の壮年たちの共有体験のような熱をもって語られたことにギモンを感じた──わけです。(揶揄の意図はなく、そもそも、にわかでなにがいけないの?という話でありQueenを知らなくても感動できるBohemian Rhapsodyは素晴らしい映画でした。)

これは同時代人ならば誰が何を聴いていたかその「人種」がなんとなくわかってしまう──という話ですが、そこに世代が加わるとさらに虚実をはかることができます。
たとえば「亡くなった母さんが松田聖子が好きでよく赤いスイートピーを口ずさんでいました」と述懐されたら、その息子or娘と母親の世代がなんとなくわかるはずです。

人種と世代に加えて重要なポイントは「鼻歌にできる曲かどうか」です。
Pink FloydのThe Wallって暗いけれど耳馴染みのいい部分ありますよね。おそらくわたしも昔We don't need no education.とかAll in all it was just the bricks in the wall.とかを鼻で歌ったと思います。だけど子供の前で親がPink FloydのThe Wallを鼻歌するかな──と考えると、やや疑わしい。
人が、なんとなく鼻歌する、できる歌。加えてTPOを考えると「生前、彼・彼女は、その楽曲が好きで口ずさんでいた」の(英語の)コメントが、けっこうな確率で「はは~ん」となってくるわけです。

結局、名曲への死んだコメントでバズりを狙うひとはMomに逝ってもらいDadにも逝ってもらいGranmaにもGranpaにも逝ってもらい、小バズりもしないうちに家族全員が死に絶え、おなじ理由で忌引きが使えなくなってしまった、会社行きたくない症候群の人みたいになってしまう──という話w。
あ。もちろん。名曲に創作の死んだコメントをしてはいけません。ダメ絶対。めっ。やるばあいは(おいおい)前述したパラメータに注意して下さいw。

死んだコメントの信憑性を生成するのは、人種、時代考証およびTPOですが、バズりたいなら創作能力が必要です。死んだコメントなんだし、グッとこなきゃバズりません。そう、まさに死んだコメントこそ、海外のほうが盛んな唯一の感動ポルノなのです。
ただ死んだコメントで特大バズりしたコメントは、装飾も媚びもないのに、泣けます。本物ってそういうもんですよね。