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くそみそにしているのでこの映画がお好きな方は読まないでください。
「現代社会の闇や不安、女性の苦悩を淡々とソリッドに描いた絶望エンターテイメント」だそうです。ウィキペディアにも『東日本大震災、老老介護、新興宗教、障害者差別といった現代社会が抱える問題に次々と翻弄される中年女性とその家族を描いた人間ドラマ。』と書いてありました。
見始めてすぐに解りますがすべてがとってつけたような感じです。時事問題をとってつけたような感じで羅列していきます。それはまさに羅列で、依子(筒井真理子)は旦那(光石研)の父親を介護をしています。拓哉(磯村勇斗)は寝転がってスマホを眺めています。旦那は失踪しますが癌になったと言って戻ってきます。依子はいかがわしい新興宗教にはまっています。拓哉が連れてきた嫁には障害があります。柄本明が演じたのはレジ係に無理難題を言ってくる老害です。木野花が演じた同僚の家に行くとそこはゴミ屋敷です。
これらは現代社会でしばしばニュースになるような事柄の寄せ集めです。波紋はそういうものを羅列して「現代社会の闇を暴いてやったぜ」とか「絶望なんだぜ」と大威張りしてみせている映画で、じっさいに震災、放射能、悪徳宗教/宗教二世問題、高齢化社会、高齢者の犯罪、障害者への忌避感、介護問題、ゴミ屋敷などを台詞と絵面にちりばめながら「わたしは社会のことをうんと考えているんですよ」というアピールをしてみせますが、単に「現代社会が抱える問題」とやらを集めて並べているだけです。ちなみに「彼らが本気で編むときは、」も「川っぺりムコリッタ」もそういう「弱者への寄り添い仕草」をもった自意識&自己顕示の映画でした。誰の自意識で顕示欲かといえばもちろん監督です。
その設定の稚拙さもさることながら根本的に何がいけないのかというとクリエイターの力量が悲劇に見合っていないことです。たとえば小説を書くとしたら身近な経験を脚色して書きます。経験が浅いならばホラーとかエロとかコメディとか読み手の興味をひくような題材で書きます。いきなり人間のことや人生のことは書きません。なぜ書かないかというと人間のことや人生のことを知らないからです。ましてや絶望のことを知らないからです。
だからわたしには日本で生まれ義務教育をへて大学で映像を学んで、そこからいきなり人間を描いてしまうという「ノリ」がまったく理解不能なわけです。多くの日本の映画監督が映画監督になったとたん人間を描こうとすることの態度や自信がわからないわけです。
ましてや日本は治安もいいし爆弾が落ちてくるわけじゃないし百歳まで生きるし何も不幸はないとは言わないがこの星の国々のなかで上位をあらそうたいがいに安全で豊かな国ですよ。そういう国で幸福で安楽な生活を生きていて、過去にも過酷な体験がなかったら「地獄」を描かないですよ、ふつうは。体験がなければ創造してはいけない──ということはありませんが、未体験でつくったら「とってつけたようなもの」になるでしょうよ。
この監督は日本映画界の女流の草分け的存在であり幾つもの実績がありますが、しかしこの人はヘルシンキでおにぎり屋をやったり海辺でかき氷屋をやったりする映画をつくっていたわけですよ。そういう人がなんでいきなり人生や人間を語ってしまうのですかという話です。ちなみに作風を変えたのは潮流に流されたからでもあります。現代の日本映画は李相日の悪人(2010)の前後で別れます。悪人をきっかけに日本映画全体がシリアス路線に奔り、ほとんどの監督がそれに追従しました。
むろん何をつくろうと当人の勝手ですが、浅はかさが画からにじみでているにもかかわらず、それがわからないのはなぜですかという話です。最近見たニュースによると、本作は日本映画批評家大賞というところで監督賞と主演女優賞をとったそうです。日本映画批評家大賞というのはサイトからの謳いによると『批評家による批評家だけの目で選んだ他に類をみない賞』で33回目だそうです。はあ?おまえら映画見たことあんの?だいたい荒井晴彦がベストでゴジラをワーストにするような左翼の重鎮と批評家が揃った日本の映画賞/映画祭になんの意味があるんですかという話です。
映画は依子の生活環境の苦しみや嫌忌を表現するために全編がぎこちない会話で占められています。嫌な仕事、嫌な家庭、嫌な夫、嫌な介護、依子は孤立して宗教にすがります。宗教はヤバさを表現するために、怪しさが誇張されています。しかしこんなたわけたダンスをする宗教ならばどんな窮地に落ちようともあほでなけば染まるはずがありません。リアリティの面でも大きな問題があります。
依子の生活は息苦しくひたすら弱者で、そこはわたしが住んでいる国と同じにもかかわらずこんな窮屈な国には住みたくないと思わせます。「彼らが本気で編むときは、」でも「川っぺりムコリッタ」でも同じことを言いましたが強制的に虐げられた人間をつくり出してそこへ同情を集めるように仕向けています。それが「とってつけたような感じ」の根拠です。
わたしの周囲にはこんな愚かな人間もこんな愚かな職場もコミュニティも存在しません。それはわたしが優れているからではなく、この映画世界がわざとすべて劣った者たちを描いているからです。わざと愚かしい世界を創出して、この世は悲劇なんだといって嘆いているわけです。ちなみにそれは日本映画の基調の方法論です。だから腹が立つというかはらわたにえくりかえるわけです。
ラストは石庭で依子がフラメンコを踊ります。喪服と赤い傘と石庭のコントラストを強調したい感じで、そこへ雨がふってきて、それに構わず踊り狂ってなんつうか狂気みたいなもの、あるいは色んな事があって理性がぷつんときれてしまった気持ちを表現したい感じでしたがいかんせん中ニな心理描写でした。ちなみに1点じゃなくて0点です。嫌なら見るなという話ですが反対意見も置いておく必要があるような気がしたので。