津次郎

映画の感想+ブログ

におい立つくささ 川っぺりムコリッタ (2021年製作の映画)

川っぺりムコリッタ

1.0
けなしていますのでスキップしてください。

──

出演者が並んで立っているプロモーションスナップ/イメージってやたら使われてねえか?

意識高い系のアート映画によくあって、たとえば「愛の小さな歴史」と「お盆の弟」ではどちらも光石研が直立し面と向かっている。

おそらくしっかり探したら(出演者が並んで直立している)同タイプの映画プロモーション用イメージがさらに見つかるだろう。

日本映画が外国映画に劣るかどうかはともかく、日本の商業/工業デザインが外国に劣るのは間違いない。

じぶんのような素人でもそれは明言できる。

たとえばYouTubeやTiktokを見ていても日本の動画よりも外国の動画のほうがセンスがいい。漠然としたことだが、このての肌感は絶対的だ。

マックスモンアムール(1986)という映画がある。監督は大島渚だがフランス映画。
人間の女とチンパンジーの恋愛を描いている──にもかかわらずゲテモノにもコメディにも陳腐化しなかったのはイメージ形成に才知があったからだ。もし日本映画だったら獣姦映画に零落していたことだろう。
概してヨーロッパの映画ポスターはアーティステックで、時として映画本体よりも完成されている。

YouTubeにTHE FIRST TAKEというゆうめいな生歌サイトがある。
個人的にそのサムネを見るたび、日本の商業/工業デザインに形骸性を感じる。
すべてが無地背景にヴィヴィッドな色帯をあしらった(わかったふうな)ミニマルデザイン。その安っぽい意匠にまとわりつく謎の自負。ぜんぜん聴く気にならない。

おうおうにして日本のデザインはおしゃれでしょ──という権威やスノビズムに置き換わってしまう。

さて「川っぺりムコリッタ」のプロモーション用イメージ/サムネも出演者が並んで直立して面と向かっている画で、見る前から腹八分目だった。

並んで立っている画がよく使われているにもかかわらず使ってくることでマーケティング担当者の発想が貧困なのは明白だろう。

この腹八分目を憶えておき、出演者が直立してこっち向いている画──から想定できるような映画だったのか、そうでなかったのかを見た後で比べてみたが、まさに、出演者が直立してこっち向いている画──のような映画だった。

いや、予想をはるかに上回る「かわいそうの舒懐」映画だった。

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どこの自治体だったか新型コロナウィルスでうちひしがれた人々の心をすこしでも元気づけてあげたいという目的で花火を打ち上げた──というニュースを見たことがある。

エモーショナルな行為だ。なんの意味もない──と(わたしは)思った。

わたしにとって川っぺりムコリッタはそれ──新型コロナウィルス禍下であがった花火のような謎の情熱だった。orウクライナに送られた千羽鶴のような手前味噌な善意だった。orなぜか走る24時間番組のオートマチック感動演出だった。

こうやって所出根拠もなく世界が厚情に彩られているという話にはヘドが出るし、よしんばそれを許容したとしても、猛烈な青さを匂わせるペーソスは消化しようがない。いまだかつて見たことがないほど強烈な「泣いた赤鬼」風感傷に文字どおり鳥肌が立った。

なんなんだこの吐き気をもよおす善人どもは???だいじょうぶですか???

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罪を犯して荒んだ気分の青年が、回りの人たちの良心に浴して、しだいに心を恢復していく──というよくある設定の話。

主人公ヤマダ(松山ケンイチ)にからむ隣人/大家/社長ら全員が無償の愛を提供し、サステイナブルな小さな幸せを実践している。かつ、それぞれが「映え」のある傷を持っている。

社長(緒形直人)はどこまでも純粋で、過介入してくる隣人の島田(ムロツヨシ)は子を失っていて、大家(満島ひかり)も旦那を失っていて、溝口(吉岡秀隆)は墓石がぜんぜん売れない。

そんな、みんないい人──の環境でヤマダはじぶんを見つめ直し、亡くなった父やじぶんを赦すという流れ。その構成じたいに疑問はない。が、なんなんだよこの鼻くそみたいなペーソスの表現方法は。

たとえば島田は虫をころせない。なぜなら幼いころ蜘蛛の糸の話を親にきいたことがあるから。で、そのエピソードをたんたんと話したりする。
また、たとえば雷がダメな島田は嵐の晩に部屋の片隅で悲鳴をあげている。大の大人が。で、ヤマダが九九の七の段を逆さまに唱えると恐怖がきえるとか言う。
あるいはタクシーの運転手(笹野高史)が亡くなった妻の遺骨を花火に仕込んであげたというエピソード話したり、スキヤキに群がったり、死んだ金魚埋めたり、夫の遺骨で自慰してみたり、河原で骨砕いていたり、しまいには遺骨まきながら野辺送りしたり。・・・。

これらがエモーショナルなシークエンスとして提供されてしまうという稚拙さの絶対値。

まがりなりにもこの原作者兼監督は日本をだいひょうする女流映画監督とされている人なんだが、なんども言ってすまないがなんなんだこのうんこみたいなセンスは。すさまじいまでの臭さと衝撃度は佐藤二朗のはるヲうるひとを上回った。

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海外では女性監督が活躍し新しい人材もつぎつぎに出てくる。
じぶんはセリーヌシアマやナディーンラバキやグレタガーウィグやクロエジャオやエメラルドフェネルやソフィアコッポラやカンピオンやビグロー(などなど)の映画を見たとき、それが日本の監督とおなじ土俵上なのか──ということをしばしば考える。

もちろん答えはいいえだ。日本の映画監督は映画監督の土俵に立脚していないし、そもそも現代社会を見ていない。なにしろ“巨匠”による本作は“21世紀の女の子”ふくだももこのおいしい家族よりもさらに酷かった。

監督はこれを海外のたとえばサンダンスなどに出品する勇気はあるだろうか?それこそ本当の勇気(というか鈍さ)だが、ちゅうちょなく輸出できますか?

仕様上0にできないのを本気で苦々しく思いました。0点。

(余談だが日本映画では左にご飯茶碗、右に味噌汁、それらの上に主菜という定型食卓配置の食事風景が必ず出てくるがそんなことをやっている家庭はめったにない。にもかかわらずそれが定番シーンと化しているのは映画監督というものが世の中を知らないからに他ならない。つくづく悲しくも痛くもない人が悲しさや痛みを描いちゃいけないし、1950年の成瀬巳喜男映画──だというならいざしらず、2021年に、ごはんを炊いてしみじみ食べる描写を小さな幸せだと主張したいなら、映画である必要はまったくない。なんつうかさあ、とりわけ過酷な経験もなくて比較的安定した生活しているひとが、中島みゆきのファイト歌っちゃいけないと思うんだよね。)

(U-Nextで1,500円払って見たので1,500円分の毒を吐かせてもらった次第です。興味深い映画ですので、ぜひみなさんもご覧下さい。)