津次郎

映画の感想+ブログ

強引な話 九月の恋と出会うまで (2019年製作の映画)

九月の恋と出会うまで

2.4
高橋一生というと、いまやひっぱりだこな男優だが、どうも慣れない。個人的に、無名時代の映像作品を見たこともあって、下積みの長かった苦労人なのは知っているのだが、どっか胡散臭い。
その理由(の一端)は、起用される役回りが絵に描いたような善人ばかりなこと──にある。善人に癒やし要素も加わる。──ありきたりな形容をつかうと「母性本能をくすぐる」というやつ。
異性ならともかく、善人+母性本能をくすぐるタイプの男優を男性は、好きになりにくいのではなかろうか?ご当人には申し訳ないが、なんかもう胡散臭くてしかたがない。なんで、こんな皮相(上っ面)が善々してる役回りばかりなんだろう。これ(固定的な配役)は気の毒なこと──でもある。

同性からは好かれにくい──と言ったが、女性でも、この、なんとなくマザコン感のある、じめじめした気配は、ダメなひとが多いんじゃなかろうか。テレビも映画も、ひとびとの求めるところに合わせ(たつもりで)、高橋一生像をつくっているのだが、ぜんぜん違うと思う。わたし(がもしキャスティング)だったら偏執な悪役を充てるだろう。
とはいえ高橋一生は演技も巧く、ベテランゆえ、この忌避感はキャスティングに因している。ジャージ姿でコンビニで買い物している人(自然体な人物像)だったら、こうまで嫌にならない。

また、ひっぱりだこになっていることで、弊害もある。高橋一生は40歳(2021)である。ことわっておくが、この国で40歳は、若い。(ものすごく)。ただ、ひっぱりだこになると(本作のように)20代、または30前後あたりの女優と番い(つがい)になる。そうすると、寄ったときなどに、みょうに苦労皺(や腕に浮き出た血管など)が目を引いてしまう──のである。ことわっておくが、俳優の皺は魅力的なものである。ただ、ファンタジーや恋愛モノ(ときめきを与えようとしているドラマ)で、俳優の苦労や年輪や貫禄が見えてしまうのは、やや違う。──と思う。

けっきょく、爽やかな気配で起用されていながら、観衆には、高橋一生はぬるぬるにしか見えない──のである。逆に言えば、製作(キャスティング)は、それが解らないのだろうか。爽やかを充てようとして、なんでぬるぬるの俳優を持ってくるの?──という感じである。むろん高橋一生は悪くない。固定的な配役が、俳優のイメージを縛っている──のである。なんとかの一つ覚えというやつ。

過去と交信するFrequency(オーロラの彼方へ(2000))などの亜種(だと思う)。だが(すさまじく)強引な展開。とはいえファンタジー/恋愛話としてそんなに悪くない。ファンタジー/恋愛話は、辻褄や合理性が、欠けても構わない──からだ。しかし、それならば、(やはり)高橋一生でなくていい。ヒロインと同世代を充てたほうが、訴求できる。なにげない装丁なのにターゲット(年齢層)が解らない映画だった。
それからこの国の映画/ドラマ製作関係者に言いたいが、おしゃれなところに出てくるおしゃれな老人としてかならずミッキーカーチスを持ってくる(なんとかの一つ覚え)やめてください。