津次郎

映画の感想+ブログ

背負うには重すぎる惨事 マンチェスター・バイ・ザ・シー (2016年製作の映画)

4.2
ケイシーアフレックに感じるのは覇気のなさである。そんな役柄が多いし、兄と比べているところもある。不真面目で、だらしなく、向日性に欠けている。眠そうな目をして、消え入りそうなハスキーヴォイスでボソボソ話す。特徴的なのは間違いないが、概して親しまなかった。

しかしこの映画を見てケイシーアフレックの身上と、人々がその演技をほめる訳が理解できた。完全なはまり役だったと思う。

まず、いつものケーシーアフレックが出てくる。覇気がなく、動作も重く、投げやり。仕事で顧客と言い争う。バーで飲むと喧嘩を売る。会話が虚ろで、つねに心ここにあらず。いつものケイシーアフレック──に輪をかけて、生気がない。

映画は、過去と現在が交錯する。
かつてのリー(ケイシーアフレック)は、とても快活だった。
中途で、リーが背負うことになった悲劇が描写される。それは恐ろしい過失で、彼の無気力と無軌道が、いっぺんに納得できる。

そこから映画は、弾幕のように悲愴が降ってくる。
罪の意識を背負って生きるリー。
I cant beat it.
そのどうしようもなさが、彼と観るわたしたちの処理能力を超え、ただひたすらどうしようもない。

不幸が重なって、兄ジョーを心臓発作で失う。
リーはジョーの息子=甥のパトリックの後見人となる。
兄の埋葬までの行程が映画の主筋。
遺品のボートが、パトリックとリーを仲介する。

パトリックは16歳。たくさんの友人に囲まれ、彼女が二人。アイスホッケーをやり、バンドもやる。青春を謳歌し、生気に満ちている。
失うものは何もないリーにとって、パトリックは相反する立場として存在する。しかし、二人には、どこかに通い合うものがある。

パトリックはリーに人生のつらさや喪失や呵責を見る。
リーはパトリックに、この世に繋ぎとめる何かを見る。それが何かわからないが、生きているなら、生きなければならない。なんとしても、やっていかなければならない。その哀感がケイシーアフレックの表情と背中にあふれる。

一般にマンチェスターといえばイギリスだが、アメリカにはマンチェスターなる地名が幾つもあるそうだ。ただしこの海辺の街は単にマンチェスターではなく、Manchester-by-the-Sea、一つづりで地名、とのことである。

きれいな海辺の街だが、Manchester-by-the-Seaから連想される叙情へは一ミリも落とさない。街も海も、何も癒してくれないし、誰も見守ってやしない。ただそこに泰然とある。お涙頂戴の極北をいくシビアなドラマだった。